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2016年03月22日13:25

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幻の人車鉄道・豆相人車の跡をゆく

と言う本を読む。(河出書房出版・伊佐九三四郎著)

そもそもはこないだ熱海旅行をしたさい、以前テレビで紹介してた人車鉄道に関する史跡を見られなかったので詳しく書いている本を探したのであった。

人車鉄道とは、鉄の軌道上で車両を人間が押して動かすというものだ。
これが、かつて小田原と熱海の間にあったと言う。
テレビ番組はもう随分昔のことでうろ覚えであるが、小田原まで汽車が通って箱根には便利になったが熱海に客が来なくなってしまうと言う危惧から熱海の名士が集まってなんとか鉄道を引けないかと言うところで苦労して鉄路を切り開き営業してたというような話だったように思う。

小田原と熱海の間には真鶴半島のつけね近辺など急勾配の難所が何カ所かあるが、そういうところでは人力では押すのが大変になる。そんで、一等の客はそのまま乗ってて良いが、二等の客は降りて歩き、三等の客は人夫と共に押す。w 料金は三等を1とすると、二等が1.5、一等が2倍。
明治の半ばの話である。…コストから考えると、三等で二人の人足が二等で3人に、一等で4人になるのだろう。実に創意工夫の詰まったバイタリティーあふれる話だと思っていた。

しかし今回この資料を読んでみて、人車…と言うのは鉄道史における一時のものではあったのだけれどそう珍しいものでも無かったというのが判ってきた。

確かに鉱山や炭坑、或いは木材の積み出しなどで手押しのトロッコが使われているケースは写真資料などにもよく出てくる。
また、鉄道馬車という馬で鉄道の車両をひくものもあり、ヨーロッパなどで広く使われていた。
日本でも使われた記録があり、資料によれば横浜から小田原まで敷設されてたようだ。
蒸気機関車のコストがある程度まで下がるまでは、導入コストの点で馬の方が安かったのであろう。
また、都市部などで運用する際に蒸気機関車の発する音と火の粉混じりの煙よりは馬糞の方がまだ環境負荷が小さいと考えてたふしも伺える。

そういう意味においては、人車は極めて環境負荷が小さく押す人足の配慮などもあって乗り心地は良いものであったという。
実際、人車トロッコは軽便鉄道と同じ軌道を用いていて、この豆相(伊豆ー相模か?)鉄道も四半世紀程度で蒸気機関車を用いる軽便鉄道へと変わる。速度は確かにUPして4時間が2時間半へと短縮しているのだが、軽便鉄道の方は揺れで体調を崩す者が続出していたと言うから人車にもそれなりの良さもあったのだろう。
ところで、機関車付きで小田原・熱海2時間半と言うのは今からすると随分かかっている。
今は伊東線で25分。新幹線なら8分だ。w 通るルートが全然違ってた。

ちなみに熱海は当時から、伊藤博文とか西郷隆盛とかの国家中枢の人々が利用していた温泉地であったが、そうやって利用されるのは箱根より遅い。
ただ箱根は当時の感覚から言えば冬場は雪と寒さで利用不可能であり、東京より冬暖かで夏涼しい熱海が珍重されていたのだという。
それで、東京から熱海までどうやって行っていたのかというと陸路の場合、新橋から横浜までは汽車がある。そんで、横浜から小田原までは鉄道馬車だが早朝立ちでも手前の国府津あたりまでで日が暮れる。昔の話なので夜は真っ暗で…翌日に小田原まで行ったら、小田原から籠か人力車で熱海まで。(籠のルートは山側、人力車の方が迂回してるので時間がかかる)まるまる二日かかったのである。ちなみに乗り心地は籠の方が辛いのは確かだが、人力車も舗装された道でないのでかなりな体力が必要だったとある。

人力車は当時でも空気入りのタイヤであったようだ。
人間が車輪を発明したのはインドという説があるが、まあ1万年近い歴史があるだろう。
木製鉄製の車輪を作り、長きにわたって利用してきた。
しかし空気入りゴムタイヤと鉄道の発明は大きなエポックであった。
無論そこに至るには原材料の入手のための広い貿易網や経済の発展、鉄の大量生産などと言う社会変革を伴う必要があったのだが。
ただの木の車輪で土の上を走る抵抗と舗装された道を空気入りゴムタイヤで走るのはエネルギー量で桁が違ってくる。更に平坦な鉄のレールの上を鉄の車輪で走る鉄道は驚くほどのエネルギー損失の違いがある。
まあ…二桁近いんでないかな。普通の通勤電車だって一人で押して車庫に入れるなんて難しくない。
また鉄道は前面投影面積が異様に小さいため空気抵抗も最小だ。根本的に省エネなのである。
蒸気機関や電動モーターなどの原動機の発明より遙かに重要な発明であった。

話が脇にそれてしまったが、他のルートとすれば横浜から汽船が出ててこっちは20時間で割と早い。しかし気持ちの良い航路ではないと言う…貨物はこっちだったらしい。
そもそも人車鉄道が部分的にでも馬を使わなかったのは日清、日露の戦争で軍馬の需要が伸びていたせいもあると言う。

当時、各地で…なぜか東日本に偏ってはいるが多くの人車鉄道が営業していたのは、そういう背景があったのだ。前述の通り、ほとんどは貨物用であったが旅客用もいくつかあった。
例えば、金町と帝釈天を結ぶ路線などもあったようだ。
しかし、それらや貨物を含め大半の営業キロ数は10キロに満たず、豆相鉄道の25キロは破格の長さであった。

この鉄道を作る上でリードしたのは雨宮敬次郎。軽便鉄道王という。ちなみに指示を出していたのは贈賄で収監されてた牢の中であった。w
また資金を出したのは地元の宿の店主が主体だが、他に熱海御用邸をもってた皇室と、当時新興財閥だった安田が多少の資金を投じている。

鉄道は新橋から横浜までが最初に開通し、次に国府津から御殿場を抜けるルートで東海道を通すことになる。当時の技術力では現在の熱海ー三島のトンネルが不可能だったのだ。
それゆえ小田原は自力で国府津以降の路線を造り、箱根はそれで便が良くなった。
昔は歩いて登ったんだろうなぁ。ヒマで健康な金持ち以外はリゾートも難しい。
しかし熱海は遠い。でも温泉はいいし気候もいいし、伊豆大島は当時はずっと噴火してたから噴煙を眺めることもできたし。

やがて全く異なる山側のルートに伊東線が引かれることとなり、熱海線は廃業することになるが、軽便鉄道時代を入れて半世紀走っていたという。

そうそう。人車鉄道の史跡であるが、我々は電車で行ったから見られなかったが、多分車で回れば何か見れるトコがあるんだと思う。



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