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2016年02月26日11:51

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時間

「時間は命」とよくぼくは口にする。
この世の中、森羅万象「答えはない」と思っている。
だが、たったひとつだけぜったいの答えがある。
それは「生命は必ず死ぬ」ということだ。
だからぼくは「時間は命」と口にしている。

だが最近、その「時間」というものは「何だろう」と疑問を持ち始めた。
いったい「時間」とは何なのか…

そのきっかけは自分の感覚だ。
たとえば、自分が6歳から12歳だった小学生時代の時間と、今、60歳を前にして感じている6年間はまったく早さが違う。

調べてみると、ちゃんとした物理学者たちが「時間」とは何なのか研究していることがわかる。
ニュートン時間というのがある。
ニュートンの説による「絶対時間」。
今、ぼくらが「時間」と呼んでいる、何ものにも影響されず継続的に流れるものである。
それに対して、アインシュタイン時間というものがある。
「相対性理論」による時間だ。
それまで絶対的だと思われていたものが「相対的」に決まるという理論だ。

イヤな仕事をしているときは長く時間を感じ、楽しいこと、集中しているときは一瞬にして時間は流れていく。
そういったことが相対性理論となる。

「時間」という概念は存在しなく、脳と心が生み出しているという考えがある。
また、10歳を1の時間の早さと考えたとき、20歳では1.4倍の時間の早さになるという
物理学者の考えがある。
また、経験をすることによって時が短くなるという説もある。
つまり、0歳を1としたとき、10歳では10倍の早さ、60歳だと0歳児にくらべて60倍の早さになるという説だ。
だが、その感覚はたしかにあるのだ。
「時間」という概念は存在しなく、脳と心が生み出しているとなれば、だれもが違う時間の中で生きていることになるわけだが、年齢を重ねること、つまり経験を積むことで観察と判断で新たな情報、知識がなくなるだけ早くなり、時間を短く感じてしまうという考えには納得できる。

そうやって考えると「時間」というのはおもしろい。
つまり生命には「老い」があり「死」がある。
だから身体という物質てきなものは死に向かって歩いて行く。

だが「脳」と「心」は人によって「時間」の概念がちがってくる。
それは「濃い時間」と言われる、つねに全力で走り続けている時間を過ごすということは、身体が5年の歩きを見せているなか、脳と心によって生み出された人の5倍で走ることによって、生み出された時間はたった1年ほどしか経っていないと考えることだってできる。

100歳で死んだとしても、20歳の脳と心の時間で死ぬことができるわけだ。

ぼくは今、本当は何歳の「時間」で生きているのだろうか。


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