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2016年02月10日17:07

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2-07 清川村 旧道 みやがせみちと村内散策

2016年2月7日(日)

東丹沢 清川村

坂尻→宮ヶ瀬旧道「みやがせみち」→
旧 土山峠→県道64号→村役場


粉をまぶしたような雪化粧を踏んで旧 村道を旧 土山峠まで歩き、県道沿いを散策しました。
役場の近くでは村にお住まいの御夫婦に出会い、貴重なお話を聞かせていただきました。

画像は、
旧道から華厳山・荻野高取山方面を望む、
朝の「みやがせみち」を行く、
村役場近くから大山三峰などを眺める


0、清川村へ

この日は村役場で預かっていただいている資料を午前中に引き取りに行く約束があり、夕方からは塾の仕事の打ち合わせもある。

じっくり山歩きをする時間は無いが、飯山観音から白山と貉坂峠か、あるいは鐘ヶ岳辺りを歩こうかな、と計画しながら出発。

前夜遅くには丹沢に降水をもたらす雲がかかっているのをレーダーで確認しており、雪を期待して早朝に村役場のライブカメラ映像にアクセスしたが雪は無いようだ。

続いて宮ヶ瀬のライブカメラを確認して驚いた。ちょうど他の方が操作していて次々と画面が切り替わるが、どの方角もうっすらと雪化粧している。

本厚木駅発 宮ヶ瀬行きの始発バスに乗り込んだ登山者は僅か数人、いずれも単独男性だ。

厚木市から清川村に入る辺りで大山を中心に東丹沢の展望が大きく開け、標高が高くなるにつれて雪の白さが眩しい。

どこで降りるか決められないまま乗り続け、結局 坂尻で降りた。



1、宮ヶ瀬旧道「みやがせみち」

坂尻の山神社と石造物を見てから宮ヶ瀬に通じる旧村道「みやがせみち」に入る。
県道ができる前までは宮ヶ瀬と煤ヶ谷を結ぶ交易・運搬・生活道であり、人馬が盛んに通った道だ。

明治と大正の馬頭観世音を見て舗装道路を進むと、旧道と法論堂への道の分岐高台にて多数の石造物に出合う。

40年前の写真では手積みの石段と塞の神の石舎があったが、今はコンクリート階段と金属のフェンスになっている。
しかし相変わらず人が訪れている形跡は無く、もうずいぶん前から時が止まっているかのようだ。

ここからは法論堂の集落と華厳山・荻野高取山の展望が良く、昨夜の雪で仄白く光っている。

旧道に入り、杉林の中の緩やかな広い道を進む。地図では長い尾根筋を登るように書かれているが、実際には登りを避けて尾根を巻くように道が付けられており、緩やかで歩きやすい。

まだ誰も歩いていない新雪は踏むたびにキュッキュッと音を立て、朝の木漏れ日が降り注ぐ中、ほんのりと雪化粧した木々を見ながら歩くのは とても清々しい。
西の斜面を鹿が駆けていくのが見えた。

時折 展望が開ける場所もあり、思っていたよりも遥かに素敵な道だ。

やがて左手の斜面に目を瞠るような大木が現れ、いかにも御神木というその佇まいが祠の存在を知らせてくれる。

すぐに登山道と合流して斜め後方に折り返すと道標とベンチが見える。
登山道に足跡は無く、深さ3cmほどのまっさらな新雪パウダーに心弾む。

登山道を外れて先程の大木の陰に回り込むと、山の神の祠(明治36年)があった。
資料には「社は二百年も経たかと思われるツガの大木の下にあり……山田氏の創建と思われる。」とあるが、その資料の記述から40年あまりを経てもなお、荒々しい枝振りが逞しく男性的な姿の大木だ。
土山峠の近辺には、山田氏が建てた山の神の社や山王宮が幾つもある。


2、人目を避けるのに苦労する

写真を撮っていると、仏果山の方から下ってきた単独男性の姿がベンチのところに見えた。
やがて男性が去り、今度は県道から登山道を登ってくるグループらしい話し声が近づいてくる。

彼らの声高なお喋りに朝の清浄な空気を乱されたような気持ちになり、挨拶するのも億劫なので 御神木の隣の木の陰に隠れる事にした。

しかし、やがて数人のグループどころか相当な人数が登って来るらしいガヤガヤとした気配が迫ったので、急いで旧道まで駆け下りる。
まるで野生動物のような行動に我ながら苦笑するしかないが、山で人に会いたくない病膏肓に入る、といったところだろうか。

斜め下から眺めていると、次から次へと中高年の男女総勢20名余りの後ろ姿が仏果山のほうへ向かうのが見えた。

再び登山道に戻ると新雪は踏み荒らされていた。
ここから県道に下るか旧道を戻るか思案していると、旧道をゆっくりと小型車が登ってきて、枝や石を取り除いている複数の男性の姿が見えた。
旧道を整備している方々のようだ。

結局、県道に下りる事にする。途中には宮ヶ瀬湖の展望が良い場所もあり、気持ちよく県道に下りた。


3、清川村役場へ

ここからは一路、県道64号線を役場まで歩く。途中で路肩に犬の檻を積んだ軽トラックを見かけ、ふと見上げた斜面にはオレンジ色のジャケットを着たハンターの姿があった。

間もなく、耳を聾する乾いた銃声が響きわたる。5発、6発… 勢子のものらしい声も聴こえる。
猟区の端だが、鹿を追い込んで狩っているのだろう、こんなに近距離で銃声を聞いたのは初めてだ。

農業保護や植生回復などの大義は十分承知だが、向かってくる獣と戦うならともかく、逃げ惑う動物を集団で囲んで狩るという行為そのものに対してどうしても嫌悪感を拭えない。

銃声が響く中、県道沿いに昔の県知事の名前が彫られた立派な「鳥獣供養ノ碑」を見かけたが、ハンターは撃ち殺した動物たちに真摯に手を合わせているのだろうか。

「柿ノ木平」「坂尻」 と下り、「引留馬」では路傍に風化した石造物群を見る。
(山王権現 1664年 寛文四年)
(百番供養塔 1782年 天明二年)
(庚申塔 1832年 天保三年)
(馬頭観世音、道祖神、地蔵尊など)


「古在家」には地元の旧家である岩澤家の邸宅があり、全体として集落に昭和の面影が漂う。

「煤ヶ谷」の谷太郎川 湯出川橋の袂には地蔵を頭に載せた大きな石道標がある。
(六十六部日本廻国供○塔 1767年 明和四年)
(この頃 政治改革により諸藩の農民が逃散。農民の帰村を厳重に取り計らわせる目的で道しるべを各所に立てたともいう。)
石道標には右「津久井」左「郡内」と彫られている。
「郡内」とは、甲斐国で甲府など中心地を指す「国中」に対し、都留や上野原など東部の田舎や寒村地域を指す。

他にもここには幾つかの石造物があった。(庚申塔 1789年 寛政元年)(馬頭観世音など)

さらに県道沿いを進むと右手に廃屋があり、短い坂道を上がるとパンダやゾウの遊具が寂しげに踞る小さな広場が、さらに山裾の平地には見渡す限り畑が大きく広がっていて、大山三峰など周囲の山々の展望がとても良い。

広場の隅には大きな木を中心に藪が鬱蒼としている一角があり、予感を抱きながら近づくとやはり石造物が3つ並んでいた。
(道祖神 1762年 宝暦十二年など)


4、夫婦との出会い

村役場の休日当番の方から資料を受け取り、県道を挟んで斜向かいにある「道の駅 清川」に入ってみる。
魅力的な特産品がたくさんある中で迷った末に、清川村産のきゃらぶきの瓶詰と地元農家が作ったほうれん草、清川茶を購入。

建物の前で販売していたオムソバとフランクのセットを買い、バス停に座って食べた。

バスはすぐ来るが、夕方の予定まではまだ時間がある。バスを一本遅らせ、それまでの1時間余り 散策する事にした。
まずは、先程の廃屋横でのんびりしよう。
風は冷たいが陽射しはあり、また、県道を走る車からは見えない場所で周囲に人家も無いので、とても居心地が良い。

座りこんで資料をめくっていたら、急に目の前に軽トラックが上がってきた。
しまった、ここは私有地だったか、と慌てて頭を下げて脇によけると、車から60代らしい男性が降りてきた。
「すみません」と謝ると、表情も変えず「いや」と素っ気ない返答だったが、自分が手に持っている資料を一瞥すると「何か調べてるのか?」と話しかけてきた。

ここから話が始まった。
自分が石造物などを巡っていると聞くと「歴史とか民俗に興味があるのか、それならそんな村の本じゃなくて新編相模国風土記稿を読みなさい。」と一言。
また、この地で繰り広げられた北条と武田の争い、村の八幡神社が毛利に関係がある事、また寺にも宗派がいろいろある事など話してくれた。

さらに、役場に勤めていた時には宮ヶ瀬のダム湖に関わっていた事、目の前の畑を耕しはじめてまだ3年目だが連作障害を防ぐ為に苦労している事など、話はあちこちに飛ぶが貴重な話をしてくださった。

また自分が学校関係者と知ると教育の話なども…。

ひとしきり色々な話をした頃、「お、母ちゃんが来た」と仰るので振り向くと同じく60代らしい女性が坂を上がってきた。

そそくさと荷台から農具を担ぎ上げ、畑に向かおうと準備する御主人に代わり、今度は奥さんと話す。

宮ヶ瀬の出身で、ダム湖建設に伴い煤ヶ谷に移転したという。
故郷を失った方にかけるべき言葉がわからず、自分からは「湖に沈む前の渓谷を見てみたかったです。」とだけ言い何も質問はしなかったが、やはり故郷が沈むのは大変に辛かったようで、特に先祖代々の墓を掘って移す作業や家を焼いて沈めた事などは「今も思い出すと泣けてきて…」と急に俯いて涙声になっておられた。

移転後も苦労はあり、役場に勤務していた頃の同僚からは「補償のお金いっぱいもらったんでしょ」と心無い声をかけられた事も何度かあるという。
「そんなこと言われて悔しくてね、村の道路が綺麗になって役場がこんなに立派なのも全部宮ヶ瀬にダムができたおかげじゃない!と言い返したわよ。」とおっしゃる顔には苦悩が滲む。

厚木の 宮の里に集団移転した人たちも補償金を受け取ったからといって皆が幸せになったわけではなく、持ちつけない大金を得て広い土地家屋に住んだものの、生活が崩れて 清川村に戻り、アパートに暮らしている人もいるそうだ。

「宮ヶ瀬の者たちは結束が強かった。何かあるとみんな集まるの。それに比べて煤ヶ谷の者は… これも時代かしらね。」「高取山?庭みたいなもんで、遊び場だった。近道も知ってたからね。」

などなど ひとしきり話して下さり、一方自分は大して気の利いた事も言えなかったが、御夫婦は農作業で来ているのに質問などして立ち話であまり時間を取らせるわけにもいかず、名残惜しかったがザックを背負って立ち上がる。

「山はいいわね。たらの芽が出る頃までヤマビルは大丈夫よ。」と笑顔で見送ってくださった奥さんと「まあ がんばれ!」と遠くから声をかけてくださった御主人に深く感謝しながら清川村を後にする。

本や資料を読んでわかったような気になるのと、実際に地元の人の話を聞くのとでは言葉の重みが違い、実体験から紡ぎ出された言葉の質感は心に直接響く。


またいずれあの場所を訪ねれば、御二人にお会いできるだろうか。


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