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2016年02月07日21:42

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今日の『真田丸』

結局、信長って先週の一回こっきりの登場のちょい役だったんですね。
しかも、本能寺の変でも出てこなかったし。

ちなみに、本能寺について最近の調査で分かったことらしいのですが。寺自体は東西は現代の西洞院通と油小路の間、南北は六角通りと蛸薬師通の間、すなわち120m四方あったのですが、信長はその寺に「宿泊」していたわけではなかったようなのです。
つまり、寺の境内の北東八分の一、つまり30m四方の一角を完全に独占して、自分の屋敷を作っていたらしいということが、発掘調査によって明らかになりました。
30m四方っていったらめっちゃくちゃ小さいです。
やはり信長は安土こそを日本の中心にしようと考えていたのかとも思いますが、すでに摂津石山本願寺との戦さも終わっていましたし、その跡地に安土以上の壮大な城を建てて日本の中心にするという構想も持っていたという説もあります。
その構想は、後に秀吉によって実現します。
つまり、石山本願寺の跡地こそが後の大坂城なのです。
もしその説が当たりだとすれば、大坂城は秀吉の独創ではなく、秀吉が信長の構想を受け継いだということになります。

安土と京都との間は、朝出発すれば夕方には着ける距離です。
しかも街道は信長によって整備され、かなりの幅の道で、少なくとも安土=大津間はほとんど高低差がない平らの道となっていたのです。
沿道はずっと玉砂利が敷かれた中に街路樹が並び、一定間隔で設けられた小屋には清掃道具が完備され、常に沿道住民によって清掃が生き届いていたとのこと。
また、旅人が食事や休憩ができる今でいうところのサービスエリアのようなものも信長は造らせました。
大津と京都の間の逢坂山もかつてはかなり険しい山道でしたが、これも信長によってだいぶゆるやかな坂道となり、輿や駕籠に乗ったまま通行できるようになったとのことです。

そんな快適な街道を進軍するのですから、明智軍が安土に到着したのも早かったのです。

本能寺の変に関しては、映画「信長協奏曲」でとってもどひゃーな本能寺の変を見てきたばかりなのであれなんですが、現実の歴史でもかなり諸説ありますが、最近私がチェックしている説は、実は家康も絡んでいるようなのです。
今日の家康は変を知って驚いて、そして慌てていますが、家康はどうもすでに事前に本能寺の変を知っていた向きがあります。
そして、信長ほどの男が家康の危険性を知らずにいたわけがない、家康を野放しにしておくわけがないという発想もまたここに絡んできます。
詳しくは、今執筆中の私の小説のネタばれになるから書きません。

それにしてもこのドラマは、家康の伊賀越えをかなり詳しく、尺を割いて描きましたね。
家康が主人公だった昭和58年大河ドラマ「徳川家康」でも、ここまで尺を割いたかなあって気がします。
まあ、今回は脱糞せずに三河にたどり着けてよかったですwww.

さて、真田の家臣で、きりの父親の高梨内記というのが出てきましたが、この人の先祖はよく分かっていません。
ただ、北信濃高梨四家といわれる豪族がおり、その血筋ではないかと思われますが、高梨本家は敵方の上杉家の重臣です。
もともと平安時代の末期に平忠常の乱を平定した源頼信(頼朝の六代前)の三男頼季の孫の盛光が最初に高梨を名乗っています。
おもしろいことに盛光は長男にのみ高梨姓を許し、次男は鳥楽、三男は小鳥遊と名乗らせています。
しかも、鳥楽も小鳥遊も読みは「たかなし」なのです。
この高梨盛光の三男から始まる小鳥遊氏こそが小鳥遊宗太や小鳥遊六花の先祖かもしれません。

ところで安土城の抜け穴って、本当にあったのだろうか?
わしゃ知らんがな。

そして真田昌幸が滝川一益と会ったのは、去年の「花燃ゆ」の最後の方の舞台になったあの町のお城なんですね。

というわけで、来週は秀吉が登場のようです。
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