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2016年01月16日16:16

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法華経の龍女(弁財自由)の成仏(解脱)で知る変性男子

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=403

私は少しは霊的世界を見聞をして来ましたが、一般に言われる霊能力者ではありません。あまり霊を見たり霊と会話する能力もありません。霊媒体質者で有ることは間違いないのですが、その霊的浄化能力は一般的霊媒体質の方とは桁違いで神霊をも浄霊化するがありますので、霊に憑依されて苦しむがないので低い霊が大量に懸かって来ていても見えないが起きてきます。これが超過敏な霊媒質者であると、なまじ霊が見えるが為に苦労します。

ある霊能者の方から、貴方は霊界の高い世界は見えるが低い霊界が見えない。これではプロの霊能者として立てないと指摘されましたが、霊能者としては不向きです。霊能者の世界とは、蛇や狐や狸や猫と呼ばれる霊と関われるほど、低い霊界と関われることが世間的には働けて優秀なのです。何故ならば霊障を起こすのは低級霊界だからです。それに対処出来ないのであれば、霊能者と名乗るななのです。そして人は死ねば天国だと言うほど宇宙的には優秀な存在ではないからです。

高い会費を払って霊的なセミナーに行って、直ぐにミカエルが天照大神が自分に出て来たと言うのは、優秀な霊能者なのではなくてそのセミナー主から低級霊の容器とされてしまったなのです。そうした自称霊はいくら出て来ても、自分に霊的浄化能力が備わっていないと、本物とは言えないのです。

低級霊界に関われることが出来て、その容器とはならない優秀な霊能者になるには、それなりの長い年月の修業を必要とします。何の修業も無しの甘い世界ではありません。私は過去のブログに何度か書いておりますが、霊感者が千人、万人修行しても本物と言われる方は一人しか出て来ないと言われている難しい世界であり、霊が見えた霊の声が聞こえたでは欺されるのです。またそれらは夢の世界まで支配して来るのです。

低級霊との媒介が出来ることと、低級霊そのもの容器となることは別物なのです。低級霊の媒介も出来て、本人は低級霊の容器となっていない霊媒霊能力者ともなりますと数少ないと言えます。
ですから、その手の霊媒者は霊能者間で取り合いになります。単に低級霊の容器なっている霊媒者では使えないのです。そうした低級霊の存在が出す言葉など信じれば、自分がその言葉に踊らされてしまうだけなのです。

そうした中で、私も神霊を見たり幽霊を見たり妖怪を見たりがタマにはありましたが、それを見ても別に恐怖はありませんでした。
2番目の師匠から死神を送りつけられたり、神通力者と称する霊能者の生き霊から攻撃を受けたりもありましたが、それで怖いもありませんでした。火炎を噴く黒龍神の攻撃などにも出遭いましたが、それでも特に怖いとも思いませんでした。

そうした中で自分が恐ろしいと思った出来事は数例しかありません。その一つに、当時は未だ16〜17歳の高校生の女子。その女子高校生とは直接出会っていなかったのですが、その家族4人の生き霊が私を訪ねて来た事があります。
壮年の男性と壮年の女性。そして若い男性。その3人には実際に面識がありましたが、その関係を知りませんでした。私と面識がある3人の生き霊が何をしに私の元に来たのかと思っていると、その若い男性が壮年の男は私の父親。壮年の女性は私の母親で、その若い女性は自分の妹だと言います。
その4人の関係をその生き霊から聞かされてびっくりしたのですが、後日それが事実であることを知りました。その中で、当時は16〜17歳の高校生と思われる女子から恐怖を味わうことににりました。余談ですが死霊は愉快犯などが居てけっこう嘘を言いますが、生き霊はまず嘘は言いません。
その16〜17歳の女子高校生と思われる女性は何百体もの黒龍神を動かすことが出来たのです。この女子高校生は「龍女」だったのです。

世の中には「龍」が憑いている方が存在します。しかし、憑いているとしても通常は一体か二体程度の数です。時には自称創造神と名乗る方がある程度の龍神を動かして来ますが、そんな数百体の龍を従えているはありませんでした。それが女子高校生で何百体もの龍神を従えているとなると桁外れとなります。
当時16〜17歳程度でしたから、今は中年。もしもそれで霊能者になっていれば、凄い霊能者となっているはずなのです。スピリチュアルで自分にミカエルが降りて来る式の段階ではありません。

俗に龍が憑いている女性を「龍女」と言いますが、別に顔が龍の顔だとか、下半身が龍の身体ではなくて「人の姿」なのですが、その魂が「龍宮界」に所属しているので龍女と呼ばれるわけです。どちらかという顔は美形なのです。
しかし、普通は龍が憑いていても一体とか二体とかで、テレビの日本昔話の初めに「坊やよいこだ」と龍の背中に乗った童子が出て来ましたが、御本人自身が龍の背中に乗ったりで、一般の人よりは霊能力が強いし奇跡的なことが起きるとしても、その程度のことなのです。
よく観音様の絵に「龍」の上に乗っている姿がありますが、意味合い的には龍女とはその手なのです。

私はそうした龍女にはメール等でかなり知り合って相談を受けて来ましたが、皆さん龍女であるが為に通常の人よりも苦労の道を味わっておられます。龍女は人間としては決して幸せではないのです。不幸せな一生を送る方が大半なのです。それは龍女であるが故の宿命なのです。
そんな龍女でも、何百体もの龍を従えているとなると、これは特別な存在と言えます。この一家を見た霊能者達が震え上がるが実際に起きていましたが、それはその家の娘たる龍女に震え上がらせる原因があったのです。その女性の魂が自分の家族を守る為に黒龍を動かしていたのです。

龍女の成仏(解脱)と呼ばれる言葉を聞かれたことが一度や二度はあると思います。しかし、その龍女の成仏(解脱)が何を意味しているかと言った時、ほとんどの方は御存知ないでしょう。だいたい龍女と言われても、それ何?。です・

その「龍女の成仏(解脱)」と呼ばれる言葉が出て来るのは【妙法蓮華経 提婆達多品第十二】の中の後半の部分にあります。法華経では「成仏」なのですが、私が()の中に解脱としているのは「成仏」では意味が解らないからです。
日本人の大多数は仏教徒で、死ねば仏様に成られたで「成仏」の言葉を使いますが、本来の成仏とは「仏陀」になったことを意味しているからです。為には「正覚」が必要であり、あらゆる迷いから抜ける【解脱】がないと行き着かないのです。

但し、法華経も一般的に使われている「鳩摩羅什訳」では欠けて解らない部分がありまして、梵語の原文がもっとも詳しいとされています。しかし、皆さんが日頃目にするのは「鳩摩羅什訳」の法華経となりますのでその文面から。解りやすいように現代風に説きます。

お釈迦様の前で文殊師利菩薩と智積菩薩が論説に入ります。以下、文殊師利菩薩は文殊菩薩として書きます。
智積菩薩は文殊菩薩に「文殊菩薩は龍宮に行かれて、どれほどの数を教化されたのでしょうか?」と問います。
すると、文殊菩薩は言われます。「その数は無量であり計算は出来ません。口では言えません。心で推測してください。少し待ってください。その證拠(証拠)が自ら現れます。
その言葉が終わらないうちに、無数の菩薩が宝蓮華に座して海より涌き出た。霊鷲山の虚空に集まって来た。これらは文殊菩薩が教化した菩薩達であった。そして一同して「六波羅蜜」を論説するであった。

それをみた智積菩薩はいわく、「大智徳勇健にして、無量の衆を化度された。今この諸々の大会、及び我皆見て実相の義を演暢(えんちょう・広く説くこと)し、一乗の法を開闡(かいせん・説き明かすこと)し、広く諸々の群生を導いて、速やかに菩提を成りさせし。
この後に梵語の原文では、智積菩薩は文殊菩薩にどのような経典を説かれたのですかの問いがあるとされていますが、「鳩摩羅什訳」には存在していません。
文殊菩薩は言う。私は海中において常に説いて宣(の)っていたのは妙法華経です。智積菩薩問うて文殊菩薩は言う。この経は甚深微妙にて諸経の宝。世にも希有なる所。もし衆生が勤加精進し、この経を修行すれば速やかに仏を得るも不ではない。

内容の途中ですが、この「龍宮」を日本有数の法華経系教団の開祖さんが、この意味を未開の人達とか辺境の地の人達とか講釈されていまして、日本有数の法華経系教団の教祖さんがその程度の者かと落胆しました。「海より涌き出た」や「海中において」がまったく理解出来ておられないのです。
おそらく、その日本有数の法華経教団の開祖さんは霊能力がゼロであったのかも知れません。学問的に理解しようとすると、海の中にある龍宮とそこに住む人達が理解出来なくなるのです。龍宮など単におとぎ話だと思うからです。龍神と呼ばれる存在は霊能力が無いと見る事は出来ません。架空の存在ではなくて霊的世界の存在です。霊視能力があると龍を見る事は出来ます。

私が霊的世界に関わった最初の時期は私に「日蓮」さんが出て来ておられました。だが私を法華経に導くのではなくて、大本教神典にと導かれました。もしも法華経から入っていたならば、私もここまで理解は出来なかったでしょう。その日本有数の法華経教団の開祖様程度の解釈しか出来ない者となっていたかも知れません。

次も「鳩摩羅什訳」には記載されませんが、原文は智積菩薩は法華経を修業して仏の悟りを得ることが出来そうな人が有りましたかと聞いています。
文殊菩薩は言う。有ります。娑竭羅竜王の娘、年は始めて八歳にて、智慧利根にして善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得て、諸仏の諸説、甚深の秘蔵、ことごとく能く受持し、深く禅定に入り諸法を了達し、刹那の頃において菩提心を発して不退転を得た。
弁財無礙(自由)にして、衆生を慈念すること猶お赤子の如し。功徳具足して念(おも)いを口に演ずること微妙広大。慈悲仁譲(にんじょう)志意和雅(しいわげ・その志や意は和で優雅)で菩提(仏の悟り)に達するでしょう。
*仁譲(にんじょう)とは「人情(にんじょう)」ではなく、分け隔ての無い仁たる愛。威張ったり自分は偉いと思わない譲る精神で自分はいと小さき者と理解すること。
スピリチュアルで言う愛は安物の愛では「仁」を意味する愛にはならないのです。

簡略。それに対して智積菩薩はとても信じられない。お釈迦様でも長い年月難行苦行を積んでこられたのに、そんな小さな女の子が「正覚」を得るなど信じられないと返すのです。

すると、忽然として竜王の娘がお釈迦様の前に現れてお釈迦様の徳を褒め称えるのです。その後も、舎利仏がくだらないことを言い続けるのですが、龍女は舎利仏の問いには答えず、手に持っていた「宝珠」を仏陀に差し出すのです。そして仏陀はその宝珠を受け取られた。この宝珠の価値は「三千大世界」に匹敵するものであった。

中略。そして、その場に居た者達の前で龍女は忽然として男子に変じた。これを「変性男子」と言います。ここが「龍女の成仏(解脱)」の部分です。

大本教という宗教が起きた時、「変性男子」「変性女子」が説かれました。大本教出口なお開祖は肉体は女子なれども男神の「国常立尊」が懸かったので変性男子。大本教の出口王仁三郎聖師は肉体は男だが女神の「豊雲野尊」が懸かったので変性女子としました。
だいたい肉体が男性に女神が懸かれば変性女子、肉体が女性に男神が懸かれば変性男子などを「変性」と称することそのものがおかしいと言えます。大本教そのものが出口なお開祖の魂は若稚姫とか下照姫の魂と言っており、よく読んでいれば「変性」の言葉の矛盾に気づきます。
それ自体は神は「火(か)水(み)」なので、厳霊(火)と瑞霊(水)の経(たて)とよこ(緯)の【経緯】の意味が解ればいいのです。神の教理を説くのが「経」であって、吉凶とか未来を予言するのが「緯」なのです。神の経緯とは縦糸と横糸で織ってあることなのです。ですから大本教神諭予告「九つ花」とは経(たて)緯(よこ)でないと意味が解けないようになっていたのです。

そして、大本教の出口王仁三郎聖師は日本が産んだ最高最大の予言者で、世界的に見ても予言者としてはエドガー・ケーシー以上と言えます。
大本教においては、教理を説いたのは大本教神諭で出口なお開祖が担当し、経なので厳霊とし、出口王仁三郎聖師は予言を担当されたので緯の瑞霊となっているわけです。そのことに別に「変性男子」とか「変性女子」を仰々しく持って来る必要性そのものがないわけです。

ある意味、宗教学を修めている人ならば、大本教のこの型演技が「妙法蓮華経 提婆達多品第十二」に関係していると気づきそうなもなのですが、皆無だったと言えます。
この法華経の【妙法蓮華経 提婆達多品第十二】の後半にあります、八歳の龍女は舎利仏の問いには答えず、手に持っていた「宝珠」を仏陀に差し出すのです。そして仏陀はその宝珠を受け取られた。この宝珠の価値は「三千大世界」に匹敵するものであった。この部分が重要なのです。

大本教において「みろく世」が説かれました。その「みろく世」の為に使われるお宝を「龍宮の乙姫」殿が差し出すがあります。どんなに「みろく世」を説いたとしても、みろく世に住む住人達の【衣食住】が保証されていないのであれば、それが無い世は絵に描いた餅なのです。
人々が争う背景には「貧困」の問題が常につきまとうように【衣食住】が保証されていないと本当の【平和の世】など来ないのです。
巷で自分は救世主ですと名乗りたい人は後を断ちませんが、では、貴方はその【衣食住】を人類に差し出せるのかとなります。それを差し出せるのが「龍宮の乙姫」の意味なのです。

法華経には「三千大世界」に匹敵する宝珠が「龍女」からお釈迦様に差し出されたとなっておりますが、実際に差し出されていれば、現代もなお戦争など起こして争っているなどあり得るはずがないのです。法華経そのものはお釈迦様の死後1000年後に編纂されたとの説もあって、必ずしも真実の話ではないわけです。どちらかと言えば「予言」的なことなのです。
この【宝珠】は何かと言いますと、これが一般に言われる【如意宝珠】のことなのです。よく仏像で「如意宝珠」を手に持った菩薩像がありますが、その型なのです。しかし、現実論としては誰もそれを手にしておられません。そうした宝珠がありますよと言うだけの予告的な話なのです。
巷には自分が「龍宮の乙姫」だと自称される方がありますが。ではその「如意宝珠」を持っておられますかとなれば、その意味すら理解出来ていないはずです。それを持っていなければ該当者ではないわけです。
単に自分に龍が憑いてる龍女と、如意宝珠を持つ「龍宮の乙姫」とは同じではないのです。

この【妙法蓮華経 提婆達多品第十二】で面白いのは、舎利子は龍女を見下しています。お釈迦様の十第弟子の一人であれば不思議でもありません。ところが龍女は舎利子のことなど相手にもしていません。龍女はお釈迦様には大三千世界に匹敵するお宝を差し出し、文殊師利菩薩に対しても尊敬していますが、舎利子など口を利く相手でもない態度です。ここに「龍宮界」の立場が出ています。
お釈迦様は単なる人が修業されて仏陀と成られた人ではありません。神の世界が人類に教えをする為に使わされた立場と言えます。

大本教の出口王仁三郎聖師は、龍宮界の龍神達は高天原の天人界より下で、龍神界にある間は「畜生」と同じだと説いておられます。つまり龍神を「解脱」しなければ高天原の天人界には進めない。そうしたことは「般若心経」の前文にも龍神は神に仕える「眷属」として説かれているわけです。
しかし一般人間界よりは格上なのです。ですから、舎利子などはお釈迦様の弟子であっても仏陀でなければ口を利く様な相手ではないとなります。
法華経にこのような記述があっても、その「宝珠」をお釈迦様が本当に受け取られたのかと言いますと、現実論ではなくて「みろく」に渡される意味だと理解するならば、書かれている意味も解けて来るわけです。

これを言うと私は人を差別するのかのバッシング受ける要素になりますので言って来なかったのですが、大本教の出口王仁三郎聖師は人間には2種類あると言われました。それは神本来から生まれ出た人間と、そうではない人間の2種類です。これが一番解りやすいのが「天津神と国津神」の立場の違いなのです。
龍神と呼ばれる存在は基本的に「天部」となりますので「天津」神となります。ここに龍女は気位が高いが起きます。しかし、「解脱」をしなければ「高天原」とは成らないわけです。

大本教神諭に【人には神とも成れる魂を授けてあるにも関わらず】とありますが、全ての人の魂には「神とも成れる直霊(良心神)」が内在します。しかし、それは「内在」しているであって、それを出さないと「神上がり」は出来ません。単に神上がりの立場では「国津」神なのです。しかし、修業いかんによっては「天人界(仏陀・如来)」にも進めます。それは天津神の世界です。
法華経に書かれている「龍女」とは、本来は「天津」界に属するのです。生まれながらにして低くても「神」の位置にあるのです。しかし、その身分は「天人界」に比べると「卑しい」者の扱いとなります。天人界に進むには「解脱」を必要とするのです。

あるサイキッカーの方が「自分は龍神と人間のハーフである。為に優れた霊力を持っている。が、天帝の位置には進めない。その位置に進めるのは人間だけである」と。こうしたことは大本教霊界物語にも記されています。人間の娘に恋した龍男です。しかし、一般的概念では少々解りづらいのです。

こうしたことを理解していない人が「龍女」を見ますと、そうしたことを説明したものがないので、その立場が解らないので誤解します。また世間からも誤解を受けやすいとなります。

法華経においては、娑竭羅竜王の娘となっておりますが、娑竭羅竜王とは八大竜王の一つで「龍宮」の王とされ、その娘とはその三女とされ、仏教では善女龍王(ぜんにょりゅうおう)とか清瀧権現(せいりゅうごんげん)ともされています。また、弁財無礙(自由)となっているので、これが「弁財天」ともされるわけです。私は龍女を見極めるのにその背後に「弁天」様が居られるかどうかを見極めの一つとしています。弁天様が確認出来れば、まず正真正銘の龍女です。

しかし、大本教で説いた「龍宮の乙姫」とは、そん存在ではないのです。もっと根本的な部分を言っているのです。

それは【龍宮の音秘め】だからです
これを展開しますと、大本教神諭予告「九つ花」となるのです。

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スピリチュアルで「龍宮の乙姫」が「玉依姫」だとか「豊玉姫」だと言っているようでは、まるで理解していないとなります。
全国各地に「玉依姫」が奉られていますが、現代の学説でも「玉依り姫」とは「神霊の依り代」たる「巫女」のことだとされておりますが、その神霊の依り代となる巫女は龍女であったわけです。玉(霊)に依るです。

この巫女となる「龍女」には、神界のある「掟(おきて)」が存在しています。それは人間の男と「情交」してはならないです。古来、巫女は「処女」であったとされるのは龍女だったからです。龍神であっても神の世界の一員なので神霊と会話が可能なので、現代の単に仕事として神社に勤務する神霊と会話が出来ない巫女とは別物なのです。

豊受様の御代をしていた私の最初の師匠は、龍女は40歳までに自分が龍女である事を認識しないで人間の男と結婚した場合、その結婚生活はうまくいかずに離婚する。離婚に到らなくても夫婦としてうまく行かない。破綻する。最悪の場合は自分の夫であった男性が死んだり破滅に追いやられると言っていました。
実際に私が知り合った龍女は何人も居られますが、そうした一人として会社の上司と不倫して駆け落ち。その男性は家庭も会社も捨てて一緒になったが最終的には自殺。次の男性は若くしてガンで残された余命もさほどないとのこと。そうした龍女の多くは自分と結婚した相手を不幸に追いやるのです。人間と結婚することが許されないからです。

ただ、龍女の結婚相手が龍男である場合は若くして結婚しても幸せでり、何の問題も生じません。もしその間に子供が出来れば産まれながらに神たる存在になります。
仮に龍女であっても40歳過ぎてからの結婚であれば大丈夫とのことで、私の最初の師匠は豊受様から死後の神名が「豊玉姫」になると告げられていて、結婚されたのは40歳過ぎてからでした。死後の神霊名が「豊玉姫」からすると龍女であったのかも知れません。晩年に離婚をされましたが、人間の男と結婚してもうまく行かないので独身者が多いのです。神に仕えるのが宿命なのです。

古代においては神との媒(仲立ち)であった龍女たる巫女(シャーマン)を擁する部族は支配者の位置に上がり、豪族や王家となるわけです。
過去世が龍女であった方は、そうしたシャーマンであり国家を動かす権力者であったので、どうしても過去の「カルマ」を持ち越しておられます。そうしたカルマからの「解脱」が必要となるのです。で、カルマの解消が出来れば天人界にと進む事になるのです。
そうしたことを知らないと、舎利子のようなことを言ってしまうことになります。

だが、龍女の反対の龍男はほとんど聞かれたことがないと思われます。試しにインターネットで検索しても龍男では出て来ないでしょう。自分の名に龍男があるの人名の話ではなくて、龍神界を指揮する存在になって来るからです。龍男は存在しないではなくて、それに該当するような存在が世の中で見つからないだけのことです。
戦国武将の独眼竜伊達政宗が龍男であったとも言われていますが、動乱の龍と言いまして、平時では龍男は世に出て来ないのです。伊達政宗が龍だと言われたのはその眼が「龍」だったとされるからです。龍男はその眼で見分けられると言われています。

国常立尊様は金龍。豊雲之尊様は銀龍。素戔嗚尊様は白龍と言われていますが、その本体神は宇宙創成が終わった時点で龍体からの「解脱」がなされていて、龍神(龍人)としての姿そのものではないのです。元津神の段階では龍神と呼ばれる体であったなのです。ただ立替ではそうした龍神達を従えるです。




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