「・・・なにっ・・・!?」
男の顔から笑みが引く。牛頭が存在していたそこには一枚の、腹部が不自然に切り裂かれた人型の白紙だけが残っていた。
いつの間にか、浴びたはずの返り血さえも消えていた。若者は険しい顔つきで立ち尽くす。確かな手応えを感じたのにその全てが幻のように消失する事例など過去になかった男の口からは、思わず戸惑いの呟きが零れる。
「どういう・・・ことだ?」
「こういうことだよ」
僅かな草の擦れ合う音と共に人の気配。若者が振り向けば、いつの間に近づいたのだろうか、岸辺と葦原の境界に若草色の狩衣に黒い指貫(さしぬき。足首を絞った袴)という出で立ちの少年が立っていた。左目の上方で前髪を分けている。後ろの髪は肩辺りの長さで、男女共に髪をほとんど切らないこの時代の人間としては少し異様であった。
年齢はおそらく成人の儀である元服(げんぷく)を終えた頃…十三ほどだろうか。
少年の長い袖から伸びた右手は、男の足元で湖の水に濡れる物と同じ人型の紙をつまんでいた。
「こんばんは」
漆黒と黄金の視線がぶつかる。少年は男に向けて子供特有の屈託ない笑みを作った。
「君が夜半に巨椋池で起きる落雷の犯人かな?清水山の守護を担(にな)っていただけの事はあるね。すごく強い妖気がここまで感じられるよ」
男は僅かに眉をひそめる。自分の相手が声音通りに子供だったという事実が意外であったのだ。瞠目する相手に対し、少年は己を指差し言葉を継ぎ足す。
「あ、自己紹介するね。僕は青月光元(あおつきのこうげん)。これでも陰陽師の端くれだよ」
「おんみょうじ?」
男は聞き慣れない言葉を反復する。それが意外だったのか、少年は目を瞬く。
「あれ知らなかった?それなりに歴史ある役職なんだけどなぁ」
「聞いた事もねぇよそんな名前。俺はただ寝てただけで守護なんて担った覚えもねぇ」
「大妖はその存在だけで環境を変えることが出来るって事だよ。他の妖異を寄せ付けない威圧的効力を持つ君の力に、僕達の祖先が気付いて祀っていたんだね」
簡潔に説明する少年に対し男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「話は判った。で、陰陽師だがなんだか知らねーが、人間のガキごときがこの俺に何の用だ?」
「陰陽師はね・・・手っ取り早く言えば異形を従える、君の天敵だよ」
あどけない笑みのままに少年の若草色の長い袖が翻った。人型の代わりに呪印の描かれた呪符が引き抜かれ、光元の刀印に挟まれる。
「僕は天命に則って君に会いに来た。これからの大きな目的の為に・・・僕は黄龍である君が欲しいんだ」
不敵な笑みを浮かべる少年。その発言に男が息を呑む。
「てめ・・・なんで俺の正体を・・・」
「それはヒ・ミ・ツ」
人差し指を立てて茶化してみせる少年。その姿を隠すようにして、突如炎の壁が燃え上がる。
「!?」
男は咄嗟に背後に飛びのき距離をとると、突如大気に響き渡る乾いた柏手(かしわで。手を合わせる行為)。拍手は他者を振り向かせる呼びかけの象徴、相手に意を伝えるの意。術者が用いれば式、配下とした異形の召集・命令の施行を意味することもある。
「っ!」
そんなことを知るべくも無い若者であったが、異形である彼の直感が右方に自身を飛び退かせていた。 途端に、前方の炎の壁から若者へ目掛けて紅蓮の炎の筋がいくつも描かれる。
しかし回避が早かった為に彼が戦火を浴びることはなかった。己が跳びずさった場所を見つめる金の瞳に、焦げ跡で躍り上がる炎が映る。ぬかるんだ地面が炎の拡大を抑えるものの、湿った植物が一瞬で灰と化す業火の威力は計り知れない。後退を続ける彼に向かい、追いすがるようにして六つの火の玉が飛び出し不自然に飛び跳ねる。
よく見れば、その握りこぶし大の火の粉には小さな四足が生え、緋色の宝石のような瞳があった。上方に向けて特に突出した部分は獣の耳らしい。炎の身体を持った子狐『炎狐(えんこ)』。それが六匹、陶器を割るような甲高い声をあげながら縦横無尽に男の周りを駆け回っている。
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