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2015年11月17日22:51

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平安五神伝 龍は雲に従う 序&1−1

序章

 雲ひとつない夕闇の空から雷鳴。
 平安京の一角にある家屋の戸口を半開きにして、小さな男の子がはるか遠方、巨大な山の峰を不思議そうな顔で見つめていた。大きな眼を数回しばたたく。
「おかぁ、おそらがないてるよ」
「こら!寒いと思ったら何してるんだい!」
 母親が咎めて屋内に戻るよう子供の肩を抱く。
 戸口を閉める間際、僅かに外を顧(かえり)見て不安げに眉をひそめた。
「なんだい、雨なんて降ってないよ。にしても、雷が鳴るから降り出すと思いきや、空には雨雲なんてひとっつもない・・・気味が悪いねぇ」
 身震いする母親に、それでも子供は首を横に振った。
「ちがうよ、おそらが泣いているんだよ」
 そう言い募る我が子を母親は不審げな目つきで見やったが、どうせ子供の言う事だと肩をすくめ、家事に戻る。
 深暗の曇天が瞬く。山の影を背に一条の稲光が奔った。


一章

 今宵の巨椋池(おぐらいけ)も闇の静寂(しじま)に揺蕩(たゆた)う。
 巨椋池と言えば平安京の南に位置する巨大な水辺を指す。近隣の住民達は周囲のススキ野原まで含めてそう呼んだ。琵琶湖から流れを作る宇治(うじ)川、京都盆地西端の木津(きづ)川、桂(かつら)川が合わさり、日本一の支流を持つ淀(よど)川となる。これらの合流地点がこの巨椋池だ。
 「池」と名指されているものの、三川の水量から成る水辺の規模は「湖」と呼ぶに等しい。

 草木も寝静まる丑の刻。人気がないため篝火(かがりび)さえ灯らぬ闇の中、緩い風で水鏡に映る月が揺らぎ背の高い葦やススキがざわめく。さざ波と草花が触れ合う音だけが夜陰に流されていく。静寂という名の音が、その世界を掌握していた。
 巨椋池の岸辺は渓流に流され角を失った丸石が敷き詰められるように並んでいる。泥溜まりでは作業に不備が出るとして、漁を生業(なりわい)とする人間達が並べたものである。結果、歩行に支障のない見事な足場が出来上がった。

 そんな人工の岸辺に、茂みから大の男のものより巨大な右足が突き出された。 ススキや葦を掻き分ける音と重い足音が響き、岸辺の丸石に巨大な漆黒の影が落ちる。
 悠然とした足取りで葦とススキの混じる群生から歩み出たのは驚くほど長身の大男。筋骨隆々とした体躯の上に、黒光りする重々しい鎧を身に纏っている。肩当てと手甲に包まれた幹のように太い腕には青い房飾りの付いた身の丈ほどもある鉄槍が握られていた。
 いかめしい武人がどうして無人の水辺を歩むのかと疑問を持つ者は多々いるかもしれない。しかし同時に、多数の人間がその疑問を瞬時に忘却に押しやるであろうとも推測がたつ。そんな疑念を些細(ささい)だと思わせる要素を持ち合わせていたからだ。

 戦装束の大男、その頭部全てが栗色の短い毛で覆われ、耳のすぐ上に反り上がるような白い角が生えている。鼻と顎が前に大きく突き出し、目の合間の間隔は広い。濡れたように照る鼻腔から時折霧のようなものを吹き出しながら大きく息をつくそれは・・・牡牛の頭部であった。
 それは現世に存在する獣でも、ましてや人でもない。自然と同じく人々の身近にあり、しかし決して相容れないもの。人智では理解できない闇の合間に潜み生きる異様のもの。神であり、鬼である。人は妖異や妖怪、もしくは化生(けしょう)とも呼ぶ。冥界には地獄の獄卒として牛頭(ごず)、馬頭(めず)という人身異頭の異形の存在が広く知られており、今回の異形が類似するならその内の牛頭が適当だろう。

 牛頭は、黒真珠のような無機質な瞳で目の前に広がった広大な湖を見やった。しばらく呆然と眺めていたかと思えば、無言のまま手にしていた槍を高々と頭の上に振り上げ上段に構える。緩慢に鎧装束が前に傾ぐ、否、右足が大きく踏み出されている。大股の踏み込みと同時に風が唸った。
 上方を向いていた銀の穂先が上から下へ、半円の軌道を描き猛烈な速さで振り下ろされる。勢いは地面に近づいても殺されることなく、近場の湖面を叩く。破砕音にも似た凄まじい音と共に高らかに白い飛沫をあげ、打ち振られた形をそのままに湖面が巨大な割れ目を作る。更に生じた空気の流れ、つまり剣圧が更に水面を疾走、巨大な巨椋池の湖面を一文字に走り対岸にまで到達し葦の群生の束を切断する。斬られた穂が周辺に散らばり、後には巨大な爪を振り下ろされたかのような跡がススキ野原に刻まれた。
 すると、晴れ渡った夜空が突如不穏に鳴り始めた。『神鳴』とも書くそれは落雷の予兆。ここ数日は晴れの日が続き雨雲は存在していない。明らかに異常である。低音の轟きは牛頭が鉄槍を振り回すごとにその音量を強めているようだった。暗く重く響くそれは猛獣の唸り声にも聞こえてくる。
 『神鳴』は神が移動する時に生ずる音だという説もある。実際、牛頭の行動は怒らせていた。天に住まう『神』を・・・。

 勢いを留める事を知らない牛頭の一撃が新たな水飛沫をたてた瞬間、漆黒の空が眩い光を発した。一瞬周囲が昼間のように明るくなり巨椋池の全貌が現れ、一筋の白銀の閃光が再来を始めていた闇夜を切り裂く!
 轟音と同時に起きる閃光の落下は落雷という現象。雷は牛頭のいる岸辺の近くに落下し、爆音をたて丸石を弾き飛ばす。あまりの衝撃の大きさに地面が激しく振動し、牛頭は体勢を保つため槍の動作を停止させねばならなかった。ぬかるんだ地面の水分が高温によって蒸発し、辺りが靄(もや)で白一色に包まれる。

 夜陰に生じた白い世界、その一角で、ありえないことが起こった。
 霞(かすみ)を通して一つの黒い影が視界に映る。緩慢な動作で伸び上がる・・・否、起立するそれは・・・人影であった。誰も存在しなかったはずの場所に突如姿を現した人影は素足で丸石の道を歩む軽い音をたてつつ霞を抜け、牛頭の視界に現れる。 それは長身の若い男であった。年は二十ほどに見える彼は異色に富んでいた。

 倭人にない黄金色の切れ長の瞳と、同色のざんばらな短髪。腕の手甲や腰留めに黄金の鱗が用いられており、左肩に藍色の掛布をかけ右腰の辺りで留めている。素足でぬかるむ湿地に囲まれた場所を歩いてきたというのに泥(どろは)ね一つ見当たらない。
 秀麗とも言える顔立ちは、眉根を寄せ誰の目にも明らかな苛立ちの色が浮かべている。肉食獣の如き鋭い瞳孔が睨みつけるのも相まって、見惚れる対象と言うよりは目を離せば瞬く間に命を奪いそうな獰猛さが伺える。その様は鬼、もしくは修羅を彷彿させた。
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