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2015年11月13日03:55

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最上稲荷と報恩48ネットワーク

 11月8日、最上稲荷の奥の院で行われたボブさんの「アクティブ・ホープ」ワークショップでは、ワークがスタートする直前、会場のスペースを満たし、去っていった不可視の存在、慈愛に満ちた精妙なボーディサットヴァの波動の現前に深く感じるものがあったので、ちょっと最上稲荷の縁起や創設者である報恩大師について調べなおしてみました。

 アクティブホープの会場に現われ、スペースを満たし、去っていったプレゼンスは、ときおり訪れてくることのある懐かしい振動なのですが、どうやらその背景にはやはり法華経を生み出したあのソースが関連しているようです。

 法華経とわたし
 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1945333337&owner_id=64170

 これは備忘録を兼ねた下書きです……

 最上稲荷の始まりは、約1200年前、天平時代にまでさかのぼります。天平勝宝4年(752)時の女帝、孝謙天皇の病気平癒の勅命が報恩大師にくだります……報恩大師が稲荷山竜王山の中腹にある八畳岩のところで祈願に入ると、やがて白い狐に乗った最上位経王大菩薩が顕現してきます。報恩大師は、その姿を刻み、さらに祈願を続け、効あって天皇は無事快癒したのでした。

 この効により、報恩大師は、備前の国に48の寺院ネットワークを建立する許可を得ます。そして、48番目の最後に建てられたのがこの最上稲荷のお寺でした。

 また785年、桓武天皇が病気に伏した際も、報恩大師の祈願によって平癒し、これを喜んだ天皇の命により「竜王山神宮寺」が建立されました。

 以来、繁栄をつづけてきたのですが、備中高松城水攻めのさい、戦火によって堂宇を焼失。本尊の「最上位経王大菩薩」の像のみが八畳岩の下に逃れ、難を真逃れる。この像を基に慶長6年(1601)新しい領主となった花房公が関東より日円上人を招き、復興し、稲荷山妙教寺となる。脇神として「八大竜王」「三面大黒尊天」が本尊とともに祀られている。

 報恩大師は岡山市芳賀に産まれ、30歳にして吉野に入り、修行。天平勝宝4年(752)、観自在根本呪を誦して孝謙天皇の病気を平癒、その効により報恩の名を賜る。795年78歳で遷化。

 なお、最上稲荷は、明治維新の神仏分離令のとき、特別に神仏習合の祭祀形態を許された珍しいお寺であり、鳥居があり、また、神宮形式の本殿を有しています。

 最上位経王大菩薩の乗り物である白狐については、また後ほど……。
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