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2015年10月27日16:18

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一人親支援プロジェクトで論争、弱者を救うのは“意識高い系”なのか?

■一人親支援プロジェクトで論争、弱者を救うのは“意識高い系”なのか?
(THE PAGE - 10月27日 07:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=177&from=diary&id=3682648

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一人親家庭を支援するNPO法人などが立ち上げた児童扶養手当拡充を求めるキャンペーンをめぐって、主宰者の一人である社会起業家と、ブロガーとしても有名な人材コンサルタントが、ネット上で論争しています。厳しい状況にある人を救おうというプロジェクトの表現はどうあるべきなのでしょうか。

 手当拡充を求めるキャンペーンについて異論を挟んだのは、リクルート出身の人材コンサルタントで、千葉商科大学国際教養学部専任講師も勤める常見陽平氏です。キャンペーンのサイトでは菅官房長官宛に「子どもを5000円で育てられますか?貧困で苦しむひとり親の低すぎる給付を増額してください!」とのタイトルが付いています。自身も母子家庭で育ったという常見氏は、この表現について、一人親=貧しい、という印象操作になってしまう可能性があるとして疑問を呈しました。

 これに対して、キャンペーン主宰者の一人である社会起業家の駒崎弘樹氏は、一人親家庭の過半数が貧困に陥っているのは事実であり、それを広く社会に知ってもらい、現実の支援につなげることが重要だとのスタンスです。

 双方の意見はあまり噛み合わず、最後は少々ヒートアップする形となってしまいました。常見氏は「こうした支援をする人は、本心では弱者を見下しているのではないか」「意識高い系のアピールがあるのではないか」と発言し、駒崎氏はこれに対して「若者を揶揄している時間があったら、具体的なアクションをしては?」「たとえ偽善者と呼ばれても、実際に困っている人がいるのであれば事態の改善を最優先したい」と返しています。

 もっとも常見氏は母子家庭とはいえ、常見氏の母親は大学教授を務めるインテリで、自らは特に弱者というわけではなく、自身の体験を一般化するつもりはないと述べています。また当の母親からも、発言を自制するようにとの連絡があったそうです。ただ常見氏は、一般的には強者と思われている人でも、こうしたデリケートな問題では傷つく人もおり、表現に対する配慮は重要との考えです。

 常見氏が当事者の一人であることは事実ですから、キャンペーンを主宰する以上、主宰者側は、どのような内容であれ、当事者の意見にはそれなりに耳を傾ける必要があるでしょう。一方、経済的に余裕のない一人親世帯(特にシングルマザー世帯)の窮状は限界まで来ています。

 非正規労働に従事する人の割合は女性の方が圧倒的に高く、その結果、女性の平均的な月収は男性を大幅に下回る状況です。日本の一人親世帯の環境は国際的に見てもかなり劣悪なのですが、この現実はあまり知られていません。多少、目を引く表現にしなければ、多くの人に知ってもらえないというのもまた事実といってよいでしょう。

(The Capital Tribune Japan)
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社会運動というものは、問題に対するアンサーな面があるわけで、つまり、その究極は次の言葉に尽きるだろう。

「この世界の衆生がみな悟るまで、私は涅槃に入らない」

これすなわち菩薩である。

全員を救うことを目指す。これは正しい。

しかし菩薩でさえ無理なことを人間に望むのは、無理である。

ゆえに、

「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ。」

チャップリン、またはスターリンの言葉になる。

3人の救助を待つ人がいる。しかしヘリコプターにはあと一人しか乗れない。

どうするか、という話だ。

一番弱った人を乗せて、次のトライで二人を乗せるというのが筋であるが、これ、タイタニックなんです。次の救助はないんですー、な場合はどうしても二人落ちる。

危険性を高めても、全員乗せる場合もある。ただし墜落したら、次の救助もできなくなる。そんなリスクを負うか。

はたまた、自分が下りて二人乗せようとする人もいる。岳かってのだが、これができるのは準備万端で二の矢三の矢がある場合に限る。

ストリームであるから、手を出せるのはひとりづつしかない。だから、場所によって、手が届くまでに時間的ラグが起きる。

そんなことは百も承知で、一人でも救ったほうがいいと、シンドラーも千畝も頑張ったわけだ。

社会的活動は、こうして、挫折とか限界と両隣だから、そりゃ割り切る力を持っていない人には難しい。あっという間に重責で潰れてしまう。

1000人殺すことなんかへとも思っていないような人間じゃなきゃ100人さえ救えないだろう。

そういう活動の中では、数多くの見捨てられたもの、見落としされたものがあるのは当然であって、別の視点から指摘する人がいても当然である。

当然であるが、まぁほとんどの場合、見捨てられる。小異を捨てて大同につくみたいなもので、カマッテられるか、という話である。

ときにそれは正しい。しかし、ときにそれがとんでもない誤りであるのだが、それは後世の歴史にならねば分かりかねる。

とうぜん、分かっているなら善後策をとるし、対策もする。分かっていないからそうなる。分からないのはなぜか、最終的には、それが未来に起きることだからだ。

それを予測したものが偉いわけではない。しょせんはたまたまなのである。それが証拠に、それを予測したやつだって、数限りない間違いを犯しているはずである。

その語彙は正確ではない、それではいらぬ偏見を生む。それは正しい指摘だ。しかし、この世の中では炎上させなければ、衆目を集めぬものなどいくらでもある。

だとすれば、こういうものも、世間の注目を集めるためのプロレスであったと解釈しておくほうが、おそらく正しい。だってプロレスだもの。シュートもあれば、出来レースだってあるんだ。

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