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2015年10月19日22:15

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「囲碁」大学授業に採用、論理的思考を養う狙い 遊技人口減にも歯止めの「一手」

■「囲碁」大学授業に採用、論理的思考を養う狙い 遊技人口減にも歯止めの「一手」
(産経新聞 - 10月19日 08:03)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=3&from=diary&id=3669637

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囲碁をカリキュラムに取り入れる大学が増えている。九州大は10月の平成27年後期から、九州の国立大では初めて、教養を身につける「基幹教育」として、囲碁を導入した。大学側は学生の論理的思考の醸成を狙い、日本棋院(東京)は囲碁人口の減少と、国際大会での存在感低下に歯止めをかけようという「目算」を抱く。 (奥原慎平)

 「石は人さし指で強そうに打つこと」「ピンチの時は視野を広げると、チャンスが見つかります」「囲碁を学ぶと相手の気持ちを考えるようになり、あらゆる社会の中で生きます」

 10月14日。九州大伊都キャンパス(福岡市西区)の講義室で、囲碁初心者の学生50人が、プロ棋士、吉原由香里六段(42)から囲碁の手ほどきを受けた。

 九州大は平成27年度後期から「囲碁で養う考える力」を開講した。計15回の授業を通じてルールだけでなく、礼儀・作法、囲碁の成り立ちを、吉原氏らプロ棋士から教わり、単位となる。

 講義には、学長の久保千春氏(67)も顔をのぞかせた。

 久保氏は囲碁歴50年、アマ4段の腕前で、囲碁部顧問を務めていた。学長職は特定の部活・サークルに肩入れできないことから、学長に就任した昨年10月、顧問を泣く泣く辞めたという。

 心身医学専攻の久保氏は「3手先を読む訓練を積んだことで、患者の病態に仮説を立てて、治療の重大な局面を見逃さない習慣が身についた」と囲碁のメリットについて説明した。

 九大が囲碁を、単位が取得できる講座として導入した理由は、「学び方」「考え方」を学ぶ素材として、適していると判断したからだった。

 学生の論理的思考能力が養えるという囲碁教育は、平成17年度の東大を皮切りに、慶応大や早稲田大、東京工業大、京都大など各地の大学で広がる。

 一方、日本棋院にとって、大学での囲碁普及は「死活」問題だ。

 囲碁人口は世界74カ国・地域で4千万人を超える。チェスの愛好者7億人には及ばないが、盤上ゲームとして世界に普及した。

 一方、国内の囲碁人口は減り続ける。

 レジャー白書(日本生産性本部)などによると、囲碁人口は昭和56年の1200万人をピークに、平成10年は390万人まで落ち込んだ。週刊少年ジャンプで10〜15年に連載された漫画「ヒカルの碁」の人気で、一時的に盛り返したが、再び落ち込み、19年は240万人となった。ネット対局者を入れても、300万人を割るほど「駄目」な状態だという。

 遊技人口、特に若者の減少は競技レベルの低下を招いた。

 囲碁の世界は日本、中国、韓国を中心に、さまざまな国際大会がある。こうした世界タイトルで日本勢が勝てなくなった。2011年度に終了した世界囲碁選手権は1997年大会を最後に、日本は優勝から遠ざかった。

 日本の囲碁衰退に危機感を抱いたのが、加藤正夫九段(平成16年死去)だった。

 加藤氏は、14年に一流棋士としては異例となる日本棋院副理事長に就くと、囲碁人口増に乗り出した。その秘策が、有名大学の授業への導入だった。加藤氏はまず、旧知の教授を通じて、東大で導入にこぎ着けた。

 『脳を鍛える大人のDSトレーニング』を開発した脳医学研究者で、東北大学の川島隆太教授は、日本棋院の委託に基づいて平成18年〜19年にかけて、囲碁が持つ学習力について検証した。囲碁を3カ月経験した小学生では、ほぼ全員の思考力が向上した。

 日本棋院の広報担当者は「江戸時代から昭和にかけて、世界でも興隆を誇ったわが国の囲碁の文化を再び発展させていきたい」と語る。同棋院は平成30年度までに囲碁教育の導入大学数を50校に目標を掲げ、着々と「布石」を打つ。

 ちなみにこの記事に登場する「目算」「死活」「駄目」「布石」は、すべて囲碁に由来する慣用表現だ。それほど日本人の生活に深く浸透してきた囲碁が、大学とのコラボで再起を期している。
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囲碁はルールを覚えても何をすればいいか、さっぱりだから。

将棋はその点、ルール=戦略みたいなところがあって(囲碁もそうなのですぞ)、なるほど、王を取ればいいのね、そりゃ全軍突撃ーとやれば、それなりに楽しめる。

もちろん、強い人とやれば、全く歯が立たなくて、楠正成の千早城の前にした鎌倉軍か、旅順要塞の日本軍か、状態で撃破されちゃうけれど、まぁ、ゲームとしては成立している。少なくとも何かやったという実感は得られる。

ところが囲碁と来たら、ルール覚えたら、どこに打ってもいいよ。と言われる。プロの本なんか読んだら最初の数手なんて、石をポンと放って、おっこちた場所から打っても全然大丈夫なんて書いてある。

更にルールをどれだけ読んでも、石をどう打てばいいかはわからない。将棋なら、桂馬はこう、金銀はこう、とルールに書いてある。囲碁はルールに石の置き方は書いてない。

なんか子難しい数式を見せられて、いきなり、ユークリッド幾何学の公理だけからこの式が求められるんだよ、と言われても、しりゃチンプンカンプン。

じゃあどうすればいいのさ、と言われると、それを知っていれば、今すぐ日本棋院に行って、コンサルタントになって、それなりにお金をもらおうというものだ。

でも、そんなこと言ってるとジリ貧がドカ貧になるわけで、考えなくちゃいけない。

さて、さてどうする。という話。

居の一番に肝心なのは、もう、面白いという事。面白ささえ感じれば占めたもので、じゃ、この面白さってどこにあるの、といえば、石の配置を考える楽しさみたいなもの。

将棋というのは道筋を考える楽しさ。王に至る一本の道を探す、見つける。そういうところがある。

囲碁は、それよりも配置。教会のステンドグラスや、壁にタイルを配置するようなところがある。

それならオセロと同じじゃないかというが、挟めばひっくり返るという基本的に二点間の一次元の働きと違って、囲碁は二次元の働きとなる。

つまり、囲めば石がとれるという事。囲むためには、四方が対象だから、縦横、つまり二次元。

ところが、ここが大きな勘違い。相手の石を取れば勝てるゲームではないという事。つまりに、高い攻撃力で相手の陣営を破れば、戦争は勝てると思うじゃない?でも、そんなに単純じゃないという事。

相手もバカじゃない。破られるような陣営を築いたのなら、それは下手か、誘っているのだ。つまり、おとり。おとりを食い破って、いい気になっている間に、あっと気づけば、四方を囲まれているとか、え、なんか一等地はぜんぶ相手のもの、という感じ。

つまり、面白さはお互いの構想力の勝負のようなところがある。処が、それは打つたびに上手くいかないから、打ってみるまではどうなるかわからない。このあたりは、将棋もいっしょ。

だから、最初はこのあたりに陣地を築こう、と考えて打てるようになれば、これはもう打てているという事。で、お互いにこのあたりに陣地を築く、戦国時代なら、築城するという感覚ね、それをやるんだけど、だんだんとこれじゃ相手が勝っているなぁ、となると、戦いを挑みに行くわけね。

戦って、相手の石を殺すというのは、お城を落としたという事と同じだからね。落とせないまでも、ボロボロに燃やしてやったぜ、みたいになれば、ぐっとこちらの勝ちが近づくわけ。

と言っても、プロを現在の米海軍とすれば、アマの強い連中が、二次大戦中の海軍みたいなものだ。僕なんて、よわっちい。日清戦争の海軍みたいなもん。それも清の方のね。

それでも始めたばかりの人なんて、縄文時代の戦争みたいなもんだから、そりゃ勝てますよ。って話。

縄文時代くらいから、ローマの時代になり、近代化して、だんだん強くなるわけだ。


囲碁は陣取りゲームとも謂われるけど、これがまずい理由だ。そんなこと言ってもよくわからないもの。でも上手いたとえがないんだよねぇ。

雰囲気で言えば、石を使って、万里の長城を築くゲームという方が近いかも知れない。

ここからはうちの領土だからお前入ってくるなよと長城を作る。ところが相手は未開の部族みたいなもんだから、長城の隙間から入ってきては略奪して、逃げてゆくわけだ。

もちろん、こっちもそれと戦うんだけど、いかんせん、逃げられることが多い。もし万里の長城が決壊したら、もう大変、あたり一帯、蹂躙されまくって、殺されるわけ。

仮に相手が逃げるから追いかけてゆくと、相手も巧妙に待ち伏せしてたりして、気付いたら包囲されまくって、あああ。全滅か、それとも、逃げられるのか。という戦いになって、すまん、お前らしんがりとなって、俺らを逃がしてくれ、という戦いも起きるのよ。

ところが、相手がこりゃしんがりだ、本体に襲い掛かれ、と号令されて、ああ、死んでしまった。。。

と投了に至る。


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