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2015年09月29日17:20

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言志四録「志を立て、一隅を照ら人になれ」


神渡良平「佐藤一斉・言志四録を読む」より。

つまらんことを考えたり、他のことに心を動かしたりするのは、志が立っていないからだ。一つの志がしっかり立っていれば、もろもろの邪念は退散してしまう。これは清泉が湧き出ると、外から水は混入できないのに似ている。


閑想(かんそう)客感(かくかん)は、志の立たたざるによる。一志すでに立たちなば、百邪退聴せん。これを清泉涌出(ゆうしゅつ)すれば、旁水(ぼうすい)の渾入するを得えざるに譬たとう。 (言志後録 第18条)


世に仕事を成し遂げた人で、志を抱くことの大切さを説かない人はいない。その人の人生がものになるか、ならないかを決めるのは、決定的に「志」である。でも若いころは志の大切さを聞いても、あまり深く受け止めていない。しかし、人生を失ってしまうような存亡の危機に立たされると、果たして私の人生はこれでよかったのかと、深刻に考え始める。そこから真の模索が始まるのだ。

私(著者・神渡氏のこと)の模索は、脳梗塞で倒れ、救急車で病院に運ばれ、一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、寝たきりの生活が始まってからだ。それまでもいかに生きるべきか、考えないではなかったが、当時の真剣な模索から考えると、青臭い摸索でしかなかった。

人生の危機に直面させられた私は、ベッドの上で必死に考え、本を読んだ。絶体絶命の立場に立たされると、娯楽小説のような軽いものはもう読む気がせず、魂の奥底に響く重厚なものを渇仰する。

そうした状況で読んだ『論語』は、私に改めて人生について考えさせ、心に染み入った。病気で何度も何度も読み返すうちに、論語の一番重要なメッセージは尭曰(ぎょうえつ)篇にある、
「命(めい)を知らざれば、以て君子たること無きなり」ではないかと思うようになった。自分の命に目覚めなければ、優れた人物になることはできないというのだ。私はベッドの上で唸った。

「私の使命って何だろう。私にしかできないことって、何があるのだろうか・・・・・」。
安岡正篤言うところの「酔生夢死の人生」(酔っぱらているのか、寝ぼけているのか、わからないような人生)に、知らず知らずのうちに陥っていたのだ。私はいたく反省した。

ところで、
「私は何のためにこの世に送られてきたのか。この人生で何をしなければいけないのか」
と自問しない人はいない。とくに秋が深くなって、自ら人生を省みる季節になると、万人が心のうちでこの問いかけを始める。しかし、とことん突き詰める前に日常生活に戻ってしまい、今月のノルマのことだとか、資金繰りに翻弄され、元の木阿弥になってしまうことが多い。その意味では日常生活を突き破らなければ、根源的な問題は掘り下げることはできない。闘病生活という日常生活から断絶された生活は、私に根源的問題に直面するよう強いた。

さて、自分の使命、天命について考えるようになった私に、安岡は、
「高望みせず、まず足下のことから始め、自分の責任分担で、一隅を照らそうと努力することが大切だよ」
と説いた。

それまで私はいつも人と自分を見比べ、早くビッグになりたい、有名になりたい、成功したいと上ばかり見ていたので、安岡の諭(さと)しは身に染みた。そしてやっと足が大地に着いたのだ。

私は命(めい)を自覚し、見事な人生を切り拓いていった人物たちの伝記を書くことによって、人生を取りこぼさなくてもすむ叡智を明らかにしたいと思うようになった。

自分の命が見えてくると、次に「これを実現せずにはおかない!」という意志、つまり強烈な志が立ってくる。

国民教育の父として深い尊敬を受けている森信三(もりのぶぞう)の、志についての意見は実に明快だ、

「そもそも人間が志を立てるということは、いわばローソクに火を点ずるようなものです。ローソクは火を点けられて初めて光りを放ちます。同様にまたに元は、志を立てて初めてその人の真価が現れるのです。志を立てない人間というものは、いかに才能がある人でも、結局は酔生夢死の輩(やから)に過ぎないといえます」(修身教授録)。

かくして、寝ても覚めてもという奮闘が始まり、絵に描いた餅でしかなかった構想が、具体的に形を帯びるようになった――。

そういう経験を持つので余計私は「閑想客感は志の立たざることによる」を実感するのだ。



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