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2015年09月27日11:06

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言志四録「わが本性と死生」

「言志録137条」より。



生物はみな死を恐れるが、なかでも人間はいちばん恐れる度合いが強い。しかし、万物の霊長である人間は、死を恐れる中にあっても、これを超越して、死を恐れない理由を探求すべきである。

そこで私は、こう考える。

われわれの身体は天からの授かりものである。生も死も天が握っているので、われわれの力ではどうすることもできない。そもそもこの世に生れてきたのはきわめて自然の力だったから、生まれたときに喜んだわけではない。だから、死ぬときもまた改まって悲しむことはない。天が生ませるべくして生ませたのであるから、死生は天に任せるべきで、どうして恐れることがあるのか。

我が本性は天からの授かりものだから、この五尺の身体に天の理が包まれているのである。精気が固まってこの身体の中に入り、また魂が遊離して身体から出れば死ぬ。死ぬと生れ、生まれれば死ぬものであって、わが本性はいつも死生を越えた境地に在る。

したがって、死生についてことさら恐れることはない。それはあたかも昼夜のようなものであり、一つの道理がある。季節が春から始まり冬に終わるのと同じである。われわれはこの道理をわきまえて、よく考えるべきだ。


生物は皆死を畏る。人は其の霊なり。當に死を畏るるの中より、死を畏れざるの理を揀(えら)び出すべし。吾れ思う、我が身は天物なり。死生の権は天に在り。當に順いて之を受くべし。我れの生るるや、自然にして生まる。生まるる時未だ嘗て喜ぶを知らざるなり。則ち我の死するや、応(まさ)に亦自然にして死し、死する時未だ嘗て悲しむを知らざるべきなり。天之を生じて、天之を死せしむ。一に天に聴(まか)すのみ。吾れ何ぞ畏れん。吾が性は即ち天なり。躯殼は則ち天を蔵するの室なり。精氣の物と為るや、天此の室に寓せしめ、遊魂の変を為すや、天此の室より離れしむ。死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、吾が性の性たる所以の者は、恒に死生の外に在り。吾れ何ぞ畏れん。夫れ昼夜は一理、幽明も一理、始を原(たづ)ねて終に反(かへ)り、死生の説を知る。何ぞ其の易簡(いかん)にして明白なるや。吾人は當に此の理を以て自省すべし。 (言志録137条)


我が本性は天から与えられた天物であって永遠の存在。体は天物である本性を一時的にしまっておく部屋に過ぎない。

必要あって一時、天は、この部屋に寄寓するが、魂が体から遊離すると、天はこの部屋から離れていく。死ぬと生まれ、生まれると死ぬものであって、本性の本性たる所以のものは、いつも死生の外にあるから、私に死に対する恐怖する必要なないと、佐藤一斉はいうのです。

本性は肉体ではなく魂だというのです。

不生不滅の永遠の霊魂の存在を前提にした考え方だと思います。



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