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2015年09月07日07:45

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ツインほか

 土曜日(5日)はT堺船場店、ツイン21、天三T書店と流た。前の二か所では古本KさんとFさんが一緒だった。T堺ではこちら。
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 たぶん持っている。いや間違いなくどこかに積んである。と思ったが拾っておく。200円なので。『匙洗う人』清水哲男(一九九一年十月二十日思潮社)、装幀・装画松本哉、題字清水あかね。このあかねさんはおくさんなのかしらん。跋が金子兜太。
 そうそう、署名が入ってます。
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 ツイン21で買ったのはこちら。
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 『堂々たる人生 谷崎潤一郎伝』小谷野敦(二○○六年八月二十五日三版中央公論新社)。小谷野先生の作家評伝(谷崎、里見、久米、川端、江藤・大江、馬琴)は図書館から借りて一応読んでいるが、できれば手元に置いておきたいと思っている。気を付けて棚を見ていてたまに見かけてもケッコウナ値段で二の足を踏んでいる。ツインではT文庫さんがこれを出していて、値段を見ると定価の半額と悩ましいところだが、他に欲しいものもないので購入したしだい。

 『大いなる日に』にこんなことを大江が書いている。こちらにはまるで縁のない話なのですが。
≪思想的な、あるいは信仰に近い思索が書かれている本は、やはり原書で読むほかないのじゃないだろうか? 隔靴掻痒というか、ここをしっかり掴みたい、というところにかぎって、翻訳ではあいまいで苦しむことがある。日本語とフランス語の構造の差で、原書の力点のある所が翻訳では前後にズレてしまってね。その結果、附随的な文章に引きずられてしまうことはしばしばあるんだ。
 原書の言葉が読めない時は、日本語の翻訳に別の外国語によるそれを並べて読むのが、次善の策。ともかくテキストを相対化することができて、自発的な受けとめをなしやすい。結局は、自分の言葉でどう把えなおすかということが、つまりはテキストの受容だからね。自分の頭と心とを通過させないで、脣の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰りかえしだけやる連中がいるけれど――学者に、とはいわないまでも研究者にさ――、こういう連中は、ついに一生、本当に大切なテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?≫

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