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2015年08月26日20:48

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宗教とは「宗(胸)」の教え。人は邪教の真理に狂うことを覚るべし

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=378

大本教の出口王仁三郎聖師は

人は邪教の真理に狂うことを覚るべし

と残しておられます。

一見すると、不思議な感じがします。通常「真理」と言えば絶対的なものであり、「真理」が二つも三つもあるはずないのです。これは邪教が説く「真理」とは、本当の「真理」ではないということです。人は邪神が説くところの【嘘の真理】に騙されたり、それに踊られされてしまうということを「自覚」しなさいと説かれたのです。

この邪教とは、【邪の道は蛇】の言葉で知られるように、旧約聖書に龍神とは【霊界で年老いた大蛇霊】とあるように、本来の龍神に近いエネルギーを保有した大蛇霊からなった龍神が説く宗教の教えが邪教と言えます。と言っても、そうした龍神は龍神とはあまり名乗りません。既存の神々や高級霊の名を騙(かた)ったり、宇宙神等と称します。これに騙される人が後を絶たないわけです。

そうした宗教に入団してしまいますと、当然に「脳」を支配する蛇霊系なのでそこに【洗脳】が起きます。その宗教の教えが絶対的真理だと思わせて信徒達を従属化して行くのです。自分では一生懸命の神様の用事をしているつもりでも、単に教団拡大の「先兵」となるのです。ある意味「洗脳」されてしまいますと、元に戻すのは簡単ではありません。

それは、決して教団が説く内容と私が説く内容が違うから、「邪教」呼ばわりするような浅い意味ではないのです。

何故に創造神は「言葉の仕組み」を創られたのか?。
いくら霊界で年老いた蛇霊で龍神と呼ばれるエネルギーを保有しようとも、
「言葉の仕組みを創れるほどの存在」ではないということなのです。
そこに主の存在を知る為には「言葉の仕組み」を知らないといけないのです。

その教団で説かれる「真理」とは、私は大本教神諭に予告された「九つ花」を紐解いて説明していますが、まるで違う内容だったでしょう。仮に邪神で「九分九厘」まで行けたとしても、その内容はお釈迦様の悟りにたどり着けてはいなかったでしょう。 56億7千万の弥勒菩薩そのものが、創造神が考えた「言葉の仕組み」の一貫なのです。


邪教を見分けるのは、「言葉の仕組み」を知ることで判断が出来るわけです。

大本教の出口王仁三郎聖師は本名は「喜三郎」です。で、神はその「喜(き)」を「鬼(き)」に変えなさいと命じます。どちらでも「キサブロウ」です。だが、喜三郎は鬼(おに)三郎はあんまりじゃと、王仁(おに)三郎とします。王仁=鬼です。
そこに示された「漢字」だけを見ていてはダメなのです。漢字を「変換」させるを知らないと、創造神の言葉による仕組みは理解出来ません。

宗教の宗とは、単に漢字に分解するだけならば「ウ冠の宇宙の示し」です。しかし「宗」は「ムネ」と読みます。つまり私達の胸(宗)の中に宿る存在を教えるのが宗教の本来の意味です。

その意味で言えば「愛」も誰しも間違いなく人の「胸」の中にあると言うように、「ムネ(胸)」の中の教えです。誰が「愛」が脳にあるなどと言うでしょうか?。
だが「愛」だと、人の胸の中に宿る「良心神(天之御中主の分魂)」が出て来ないのです。
これが出ないと、「人は神の子・神の宮」である証明論に向かいません。イエス一人だけが神の子式になってしまいます。

愛を型で示す時【ハート】型で言いますが、誰でもそれは心臓の形と言うでしょう。脳とは言いません。

日本の両部神道の祝詞に有名な「六根清浄」があります。その中に「五臓の神君安寧(しんくんあんねい)なり、五臓の神君安寧なるが故に「天地の神」と同根なりとあります。これは私達の肉体の胸(六根のムツネ)に宿るものが「神君」であると言っているのです。天においては「天之御中主」。地において「国常立尊」。その天地の神と同根のものが私達の中にあるのです。
その五臓とは「肝臓・心臓・脾臓・肺臓・腎臓」です。その中で「心(魂)」が宿る場所が心臓とされ、人の魂の大きさはその心臓の大きさにほぼ匹敵しているとされます。

どこでどうやっても「心(魂)」は心臓にあると、古今東西は語って来ているのです。

そうしたことから、大きな魂は「象の心臓」に宿るという説すらあります。今の地上世界において一番大きな生物はと言えば「象」ですから、それも言えますが、そこにはもっと大きな意味があります。
原始仏教では「仏像」を拝することは禁止されていたと言われていますが、いつしか人々は「仏像」を造って、それを拝むようになりました。
そうした仏像には「霊」が宿っています。その仏像が大きければ大きいほど「多数の霊が集団化」して宿っているのです。

すなわち、魂が宿る像=象(ぞう)が起きるのです。

魂は脳に宿ると説くのは邪教の教えとなります。何故ならば、魂には「脳」が存在していないからです。では、魂における智力はどこにあるのかとなりますと、魂の一霊四魂の「奇魂(くしみたま)」の中にあります。
日本神道系では、【奇魂(くしみたま)】幸はえたまえと宣(の)ります。そこに本当の神たる智力があるからです。その奇魂(くしみたま)と良心神が結びついていないと、蛇(邪)教の教えに間違ったことを教えられてしまうのです。学ぶことの重要性で、霊感直感だけでは危ないのです。

私達肉体の中にある玉(球)は小さなものですが、正神界の御神霊の玉(球)ともなればたいへんに大きくて美しいものです。そして玉(球)がしっかりとしていています。そんな玉(球)は今日まで写真などにあまり写されておりませんが、どなたの玉なのか解りかねますが霊能者故・田響隆仁氏撮影のものを拝借しますと完全「玉型」と解るでしょう。下にあるのはお釈迦様の涅槃象。玉は透き通っているのが解ります。
但し、私が見て来た御神霊の玉(豊受様など)とはその写真よりも大きなものであり、もっと美しいものでした。

ただ、故・田響隆仁氏撮影の玉(球)はスピリチュアルの人達が写して喜ぶ「オーブ」と呼ばれるものとは段違いであることが解ります。

私達の魂は宇宙の星と同じ様な形態を持っているのです。

魂=玉思惟(思惟は深い思考・考えること)で、脳にある「智慧」のことではないのです。

フォト


霊能者故・田響隆仁氏撮影


人に宿る玉思惟は私達の肉体の心臓に匹敵する大きさで、あまり起きた事案はないようですが肉体の胸の前から出入りします。それが起きた時は肉体に大きな衝撃が起きますが、その体験者は一部に限られているようですが居られます。御神霊ともなれば玉(球)が格段に大きくて、人の肉体には宿ることは不可能となります。
そこに来るのが「コップの水全体と水滴」論です。私の過去のブログは図解で説明しております。

そこが解っていないと、本守護神・正守護神が何の意味か理解出来ずに、副守護神や憑依した神霊で止まってしまいます。

俺は凄いのだと豪語されても、肉体の身ではどなたの玉(魂)もさほど大きさは変わらないのですが、その背後にいる御神霊は人によって玉の大きさも違って来ます。神に大小は無いと言いたい向きの御神霊もあるようですが、御神霊の玉には大小の違いがあります。
高い神様のミタマを貰っているという方は、大きな玉からその一部分を受け取っておられるのです。為に人の身である間は【謙虚】であらねばならないのです。俺は偉いのだ凄いのだと言いたいのであれば、死後の世界に入ってから言ってください。


みろく世は「水晶ミタマ」と予告されていますが、これまでの魂とは別物になります。その特徴はこれまでの魂とは違って腐らない潰れない捻れないです。で、【永遠性】が保証されるのです。
とある神通力者が水晶玉など重くてと言いましたが、この世の水晶玉の話ではありません。腐らない潰れない捻れないの特性を説明する為のものです。その見た目が「水晶」のような透明の玉なのです。

如何なる宗教の御神霊も霊能者も、この「水晶ミタマ」を創ることは出来ません。その水晶魂を創り授けることが出来るのは「鬼と云う」の魂の創り御親神。人類を生み出した【国常立尊】様になるのです。ですから【来世門の羅城の閻魔大王】とも申し上げて来たのです。みろくの世は新しい世の「来世」です。

既にみろく世に向かう人達に与えられる「水晶ミタマ」は用意されています。問題は、その「水晶ミタマ」を貰える人達をどれだけ増やせるかにかかるのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は新しい魂に「誂え」の意味で、3月3日の「桃の花」。5月5日の「桃の実」と説かれたのです。

みろくの世【来世】は、新しい魂(鬼が云う)の水晶ミタマになります。

私達の魂がこれまで持っている「意識」を、その新しい「水晶ミタマ」に移行させることによって、これまでの人類は新しい人類にと移行して行くのです。で、これが【復活・甦る・蘇る】とこれまで宣伝されて来たのです。


多くの宗教家の方が、自分の前に現れた霊が神だと思って宗教を起こされました。確かに御神霊であっても、それが正神なのか邪神なのかを判断をせず、ただ闇雲に宗教を起こされて来た経緯が見られます。誰もお釈迦様の悟りが「人には良心神が内在する」と解らなかった時代です。止む得ない面はあるのです。
大本教が世に出した「みろく神」と大本教神諭が予告した「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」があってこそ、お釈迦様の悟りが理解出来るだったからです。

妙霊・黒住・金光・天理の先走りとして、大本と呼ぶ宗教が起きました。その御神名はそれらの教団によって違っていますが、これは一つの流れです。その主たる元津神は「国常立尊」とされます。

ウシトラ(牛虎)金神の意味は「鬼(牛頭虎パンツ)が云う」で、魂の御親神

が、大本教以後、本当の「国常立尊」様の動きは止まってしまったように見えます。

私は何故に「国常立尊」の働きが大本教以後、止まっているのか不思議に見て来ましたが、私が推察するには徹底的に邪神達を表に出して活動させる。そうした邪神が起こした宗教団体を見た時、自分に「良心」神が確立されていれば、そうした間違った教えをしている宗教に気づきます。で、入信はしない。
仮に入信しても、その教団の間違いに気づいて退団する。間違いに気づいても退団出来ない者は真の勇気を持たないのです。また、ここまで活動したのにと執着や未練が残るのです。御本人に「良心」神が確立されていないと、邪教を邪教と見破れないわけです。
大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた、【人は邪教の真理に狂う】になってしまうのです。

私の元に一通のメールが来ました。そのメール主は、戦前は大本教と深い関わりがあった著名な教団の信徒だった方です。その当時の開祖や幹部さん達は皆さん正しい方達でした。だが時は流れ、今やその教団は悪神の魔窟となっているので退団しました。だが、教団が悪神の魔窟になったことに気づかない信徒さん達は、今も自分達は正神界に所属していると思っておられる。そうした意味のメールでした。
私もその教団は過去は正しかったけれども、今では邪神の支配下と見ておりました。気づかれる人は気づくものなのです。

いくら開祖は正しい方であったとしても、やがてその教団は時間が経過して行くと悪魔や邪神に支配された幹部達によってねじ曲がって行くは、どの教団も習いです。その方が所属されていた教団だけの特別の話ではありません。

何故に「国常立尊」はそうしたことを黙って見ておられるのか?

一度この世を邪神達に支配させる。そうした中から「誠の者」が出て来るからでしょう

スピリチュアルと称している人達の中では「国常立尊」は悪神だと言っておられる方が多々あります。仮にも創造神だった存在を悪神だと罵っているスピリチュアルに接した時、そこには私達が知ることがない時代背景が存在します。それは勝てば官軍。負ければ賊軍の習いの汚名から発したものです。

ウシトラの「艮」は負けて「退いた」神の意味です

国常立尊様の御復帰によるみろくの世は、創造神に忠誠を誓い従う国常立尊派の御神霊達と反創造神派の御神霊達とに永遠に別れて行くことになるのです。国常立尊は悪神だと主張されるスピリチュアルは、反国常立尊派の御神霊をバックにされているということなのです。
単にスピリチュアルだと見ているのではなくて、その背後には何があるのか?。そこまで理解を進める必要はあるのです。


そうした反国常立尊派の御神霊がみろく世に向けて出す船は、全て沈没していくでしょう
みろく世に進むのは、創造神と共に行くなのです

新しいみろく世に使える者とは、人は邪教の真理に狂うを自覚する。そうした誠の判断の目を持っている人達でないと難しからでしょう。


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