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2015年08月19日14:01

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この世で「犠牲」となるも他を助ける為に贖罪の代物弁済。死後に助けを求めるは後の祭り

http://kamikotokai-b.jugem.jp/?eid=376

私が子供の頃に「旧約聖書」の神と名乗る声は、私に不思議なことを告げられました。

人は死後、あの世に渡って自分は生前間違っていたと気づいた時には遅い。あの世に渡ってから、こんなはずではなかったのにと悔やんでも間に合わぬ。間違っていたと気づくのはこの世に生きている間である。死後に慌てて子孫に助けて欲しいと頼るのは【後の祭り】にしか過ぎない。
人はこの世に生きている時に、どのような形で有ろうと神に対する【先祭り】をしておかなければならない。この世に生きている時に神の存在を信じ、感謝の信仰心を持つことが大切である。

そなたが死後の世に旅立って、あの世で落ちている者達を助けたいと願うので有れば、自分がこの世に生きている時に神の世界に対して積んだ【功績】を、そうした者達に分け与えることである。そこに来るのは【自己犠牲】なり。そなたも自己犠牲を払わないと、霊界で他の人を助けることなど出来ないと知りなさい。
そなたは今生において、他の人には語れない苦労の道を行くであろう。だが、その苦難が多くの人を助ける道と成る。そなたが「苦労」を積めば積むほど、多くの人を助けることが出来る。

犠牲=神の祭壇に牛と羊の血の捧げ
牛はウシトラで、羊はヒツジサル

私は自分がいったい誰なのかよく解らず、いろんな霊能者の方に出会って来ました。そうした中で幾人かの霊能者の方から、貴方は「メシア」ですか?。と言う質問を受けたことがあります。
私はそうした霊能者の方に、どうして私が「メシア」などと思われるのですかと逆質問したしたところ、貴方の背後には霊能者と呼ばれる人達とは桁違いの大神霊団が控えており、このような背後に大神霊団を持つ方は見た事が無い。たぶん「メシア」と呼ばれる存在以外には考えられないと言われます。

そうした時、私は自分は「メシア」などではありませんと返事します。何故かと言いますと、子供の時に聞かされた「あの世(霊界)で落ちている者を救いたければ、自分がこの世に生きている時に神界に対する多大な功績を積んでおかないと救えない」と言われていたからです。
この私がこの世でどれだけ神界に対する「功績」を積んだのかとなりますと、とてもとても全人類を救うという「メシア」に成れるほどの神霊世界に対する功績など持っていないからです。


私は朝鮮に残されていた予言。【最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その教えに従った者達の上には神の罰は降りない】を見て、大本教神諭が予告した【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を誠で紐解く者が一人出る】で、それを紐解いて皆さんに解説しているだけです。


この「米」一字の教えは、今日まで私以外の人が出された形跡はありません。単に「九の数理版」ではお釈迦の悟りが出て来ません。お釈迦様の悟りを出せてこそ、五十六億七千万の「みろく(369)」の仕組みとなるからです。


米教そのものは、【他(田)を救(鋤く)いて世根(米)と成れ】であって、自己の良心神に従って他の方を救われた方は最後の審判を恐れる必要など無く、みろくの世にと進むことが可能となります。
それだけでなく、世根として他の方を救った場合の功績は、その持ち分を他の霊に譲って他の霊を救うことも可能となります。つまり自分のカルマの解消のみならず、他の霊のカルマも減じたり消滅させることも出来るわけです。これを【代物弁償・弁済】と言います。代わりにその方の魂の借銭を払ってあげられるわけです。


【祓い】と【払い】が同意義であったことに、気づかない人が大多数とは言えます。単に神社に行って「祓った」では、魂の借銭の払いにはなっていないのです。幾度も神社に参拝して祓ってもらうより、自己の犠牲をもって他の人を救った方の法が魂の借銭を払っているのです。

神の法=報(むくい)であり、善の報いを頂く者。悪の報いを受ける者。

良心神の教えを実践する方達は、その人その方が他の霊を救う「救世主」の役割も持たれることになります。それで「米」教は「メシヤ(飯屋)の教え」ともなるのです。
その意味の「飯屋(メシヤ)」であれば、私も「飯屋(メシヤ)」の一人とは言えるでしょう。
旧約聖書における「メシヤ」は「油を塗られし者」の意ですが、油を塗っていただいて、そこに何の意味があるのかとなります。まったく意味をなさないのです。

イエスが処刑の刑場に向かう時、一緒に刑場に連れて行かれる泥棒の一人が自分を天国に一緒に連れて行ってくれるかと尋ねられた時、連れて行こうと「天国切符」を切りました。それはイエスは「パンという教えの飯屋(メシヤ)」であったからです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、西洋は副食の「パンの教え」。日本人の主食は「米」と示されてます。また、大本教神諭には、米は落ちていても一粒だにすくい上げようとあるでしょう。

米教の「飯屋(メシヤ)」は、お釈迦様の悟りの「人には良心と呼ばれる神が内在する」を【シャリ(骨)】とします。

米教そのものは、お釈迦様の悟りをシャリ(白飯)としている関係上、その教えを遵奉している方は一人一人が「メシヤ(飯屋)」であり、他に「メシヤ(飯屋)」を求める必要が存在して来ません。
ただ、世に「ハルマゲドン(殺戮の丘)」と呼ばれる正神界と邪神界の最終戦争を指揮する存在が有り、それは「メシヤ(飯屋)」の役割ではないのです。

なお、「人に内在する良心神」の教えに気づかずに、今日まで来たと言われる方があります。それ自体は特別に問題はありません。間に合わなかったのではなくて、個々としては最後の審判が行われる日までに悔い改めが出来ればいいのです。
ただ、自分以外の霊を助ける「メシヤ(飯屋)」と成る部分に関しては、霊界維新(御一新)の関係上、一端締め切られてしまったようです。一部の霊能力がある方は、霊的世界から「米」は既に終わったと受け取っておられるでしょう。

それは最後の審判の日が刻々と近づいて来ていると思えますが、

メシヤ(飯屋)の部分と言うのは、自分以外の霊に対して「みろく世行きの切符」を発行できる権限のことです。


つまり米教を実践したことにより自分が「複数枚のみろく世行き」の切符を天帝から貰える話です。その余分な切符を他の方に差し上げられる部分のことです。ですから、米教が終わった後は、個々の個人がみろく世に進む切符をいただくになります。その意味で、米教そのものは終わったとしても個人としては問題はないのです。どこまでも自分が他の方を助ける問題です。

私が子供の時に告げられた「この世で自分が積んだ罪(カルマ)によって、霊界で落ちてしまう人達に対する【代物弁償】は、キリスト教においては【贖罪】として説かれて来ました。
また、創価学会さんで地獄に落ちたくなければ学会に多大な寄進をせよと幹部の方達が講演されるテープが世に出回っておりましたが、それはキリスト教と同じことです。
チカラがある優秀な霊能者の方が言われる先祖霊を助け上げたければ大金を差し出しなさいも同じ事なのです。

贖罪=自分が犯した罪(カルマ)を財で売り買いする

カルマは、スピリチュアルで説く「何をしても神の愛で許される」はあり得ないことで、自分で自己カルマを消滅させるか、他のものをして【代物弁済】しか道はないのです。
旧約聖書には、自分が播いた悪しき種の果実は自分で刈り取らなければならないと、はっきり示してあります。どこにも何をしても自由であり、神の愛で許されるなどの表現はないでしょう。それらは邪神の教えなのです。

この【代物弁済】は、財で罪の売り買いした者にその集まった罪を【代物弁済】する能力がなければ、その者が代わりに地獄での刑期を勤めることになります。借金(カルマ)の踏み倒しは出来ないということです。
代物弁済でお金を受け取った牧師や僧侶に、それらの「カルマ」を消滅させるチカラが無ければ、自分が代物弁済の対象になってしまうのです。これが大本教の出口王仁三郎聖師が残された、「地獄を覗けば、牧師や僧侶」でいっぱいだになります。


スピリチュアル系の方達は、既存の宗教家で金儲けに走っていた方達が地獄界に墜ちていると見えたとしても、スピリチュアルで「神は愛で、何をしても許される」等と言っていれば自分達は免れると思っておられるようですが、そこにあるのは【代物弁済】の問題なのです。
スピリチュアルでも【魂の借銭払い】を言っているような方でないと、とんでもない世界に導かれてしまうかも知れないのです。

どこの世界に「借金踏み倒し」をするのが「愛」だという世界があるでしょうか?。


無償で人助け=自己の魂の徳分(功績)が高まり、霊界においても多くの霊を助けることが出来る。必然的に霊界での地位が高くなります。
有償の人助け=自己の魂の徳分(功績)とは成らず、明らかに金儲けの場合は霊界において「蛇霊化」する率が高くなります。

有償でも必要実費とか自己の生活費をまかなう程度のものであればさほど問題も生じませんが、人助け=金儲け職業となっていれば、霊界で人助けが出来るほどの高い世界に進むことは難しくなるのです。他(田)を救(鋤く)う世根(米)とはなっていないからです。
神霊と崇められている多くの蛇霊は、人助けをして大金を貰ってどこが悪いと主張されますが、基本的に【代物弁償・代物弁済】の存在を忘れておられたのです。
そこで、「神は愛ではなくて良心神だった」と気づかれた蛇霊は、悔い改めたならば、その蛇霊の身を一気に「浄化・浄霊」して、元の天人界にと戻して差し上げることが出来ます。これが「米教」の「メシヤ(飯屋)」の働きです。

【至誠、天に通ず】と言いますが【姿勢、天に通ず】でもあるのです。

その「姿勢」とは、自分の姿や勢いではなくて、自分の【生き様】です。
神の存在を信じて、他を助ける「犠牲」を払っている者は天に通じるなのです。

天国界に住む天人と呼ばれる人達の中で、神は愛だから何をしても赦されると言っていて天国界に進んだ者など一人も居ないでしょう。天国天人界に進む方達は、他を救って世根として、神を信じて感謝で暮らしてこられた方達。だが、いくら人助けをしていると言っていても、そこに大金が絡めば、それは商売である以上、人助けをしているとは「閻魔庁」からは見なされないのです。

至誠、天に通ずるは「誠」により到る道。
天が言で成っていることに気づかないようでは、愚かなり


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