「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」1599年
グイド・レーニ
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この作品はある悲劇の少女を描いたものと言われています。モデルとされるベアトリーチェ・チェンチは16世紀イタリアの裕福な貴族の娘ですが、その父フランチェスコは家族を暴力で支配し、幼いベアトリーチェに陵辱の限りを尽くす極悪非道な男でした。その嗜虐に耐え切れなくなった彼女はついに、母親らと結託して父親を事故に見せかけ殺害するに至るのです。しかしそれはすぐに露見してしまいます。哀れなその境遇を知った市民は助命を嘆願するのですが、チェンチ家の莫大な財産を我が物にしたかった時の権力者ローマ教皇クレメンス８世は一切聞き入れず、激しい拷問の後ベアトリーチェは22歳の若さで処刑されてしまうのでした。
その悲劇的な最期は多くの文学・音楽・美術の題材とされて来ました。この作品はその嚆矢ともなるもので、処刑場に引き立てられるまさにその時の姿を描いたものと言われています。見返り姿の少女の目は悲しみと諦めを湛え、自らの残酷な運命に対する投げやりな自嘲なのか、口元は微笑を浮かべているようにも見えます。その物語を知ってこの絵の儚げな少女の姿を見ると、胸に迫るものがあります。多くの人に感銘を与えるこの作品は、隠れた名画として高い評価を得ているのです。
と、これがこの絵にまつわる一般的な言説。しかし、それは正しい鑑賞とはいえないでしょう。作品自体を見ているのではなく、それに付随するお話に感動しているに過ぎないからです。
緻密に観察し冷静に判断すれば、この絵もベアトリーチェの悲劇も、作りものである可能性が高いとされるべきでしょう。チェンチ家の事件は確かにあったのでしょうが、事実経過を見ていくと、父親から逃げようとしなかった点から見ても、その判決の通り非道な母娘による財産目当ての尊属殺人というのが真相のように思えます。この絵が描かれた経緯というのも嘘くさい。死刑囚の肖像画が描かれることなどありえないし、まだ24歳で画工の修行中の身だったレーニにその依頼がくるはずもない。だいたい写真じゃないんだから処刑前の姿をそのまま描けるはずもないし、その必要もない。拷問の痕は全く見えないし、第一22歳にしては幼すぎる気がします。
ベアトリーチェ・チェンチが数々の作品に取り上げられるようになったのは19世紀ロマン主義が流行してからです。家族内の桎梏、近親相姦、虐げられる女性、権力者に対するアンチ、取り上げられる主題はどれもロマン主義的世界観にマッチするものです。それは史実がテーマに適っていたから採用されたのではなく、逆に創作の方が史実にすり替わったと見るべきでしょう。実際ベアトリーチェ・チェンチについての逸話は創作物に描かれたことばかりで、確かな史料などはほとんど無いのです。この絵もおそらく後代に誰かが描いた絵を、後から同時代のグイド・レーニのものとでっち上げたものではないでしょうか。というのも、レーニが活躍したバロック期の作品にしては、この絵はあまりにもロマン主義的だからです。
レーニには、死を目前にしたルクレティア（
http://goo.gl/7GW3jV）やクレオパトラ（
http://goo.gl/O1g6ot）を描いた似たような作品があるので、同様にベアトリーチェがあっても不思議ではないように思えますが、それらはあくまで史実であり絵画主題として確立したものです。同時代の出来事をリアルに描くジャーナリズム絵画というものは当時まだ存在しませんでした。そうした時事的な主題は、18世紀のダヴィッド以降、ジェリコーら19世紀ロマン主義時代になって一般化します。またレーニは、上空を見やり恍惚とした表情を浮かべるような、人物の内面感情をテーマとした多くの肖像画を描いていますが（
https://goo.gl/mu9hoY）、そこで描かれる表情は古典主義的なもので、即事的に自らの世界の中に完結しているように見えます。 それに比べてベアトリーチェは（それが本当にベアトリーチェだとしたら）多分に叙情的で、他者に訴えかける主観性や感受性に重きをおいたロマン主義的な表情と言えるでしょう。さらにベアトリーチェが頭に巻いているターバンは、斬首の際に髪が邪魔にならないようにするためとそれらしく言われていますが、処刑の作法としてそんなものが本当にあったのかどうか、傍証を聞きません。髪をまとめる方法は他にいくらでもあるのに、イスラムの男性装具であるターバンを用いるのも変な話です。ちなみにターバンは半世紀後に同じような構図でフェルメールも「真珠の耳飾りの少女」に描いていますが、その頃でも特異な装束だったもので、オリエンタリズムが流行りだした18世紀後半から、ロマン派のドラクロワなどを筆頭に盛んに絵画に描かれだし、女性のファッションにも取り入れられるようになるのです。
http://goo.gl/AS9oST http://goo.gl/q3tmbz
かように、この絵からは19世紀ロマン主義の香りがプンプンします。あくまで私見に過ぎませんが、この作品は19世紀になってからの偽作と見るのがふさわしいように思います。美術館に収められた有名作品がフェイクだなんてありえないように思えますが、実はそういうことってよくあるのです。
とは言え、16，17世紀にこういう絵はありえなかったのかと言ったら、必ずしもそうとは言い切れません。作品は多様なものが星の数ほど作られ、その一部が後の時代の価値観の篩にかけられながら残っていくものです。19世紀のロマン主義という価値観が、たまたまその時代精神に合致するものを、数多ある作品のうちから都合よく解釈して見出したのかもしれません。いずれにせよこの作品を悲劇の美少女のコンテキストの中で読み解くのは、正しい鑑賞法とはいえないでしょう。この作品からそういう内実を読み取れたとしたなら、これは19世紀の偽作だし、17世紀の作品だとしたら、全く違う意味が込められたものと見るべきだからです。
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