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2015年06月10日03:29

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寄り道安保1

火炎瓶テツ @tetsu_molotov 3 時間3 時間前
【後れ馳せながら】昨日6月8日(月)夕刻、火炎瓶テツ他2名は各々が留置されていました丸ノ内署、中央署、東京空港署より無事に釈放されました。皆様の温かい御支援、御声援本当にありがとうございました。皆様より頂きました沢山の美しいものを胸にこれからも戦わぬ闘いを闘い続けて参ります。

5月28日以降ツイートが途切れてたんで、
どうしたんかな、と思ってたら、なんとパク
られてた。意外だった。けっこう前からフォ
ローしてるんだが、デモ=命で、はんぱじゃ
なくデモしてた。が、パクられた事はなかっ
た。今回は激しかったんだろうか。

*パクられる(ネットの俗語辞書では)
[1] パクるとは物を盗むという意味で、不良に使われた言葉である。1980年代に入ると音楽や小説などの作品、さらにキャラクターやブランドなどで、他者のアイデアや特徴を流用、真似することもパクるというようになる。
[2] パクるとは警察が犯人を捕まえることで、盗人の間で使われた。
パクるが一般的にも広く浸透したのは1970年代末以降だが、1・2ともに明治時代には隠語として不良を中心に一部の若者の間で使われている。語源については「縛」からきたとする説、ドイツ語で包む・掴む(とっ捕まえる)という意味の「packen(パッケン)」からきたとする説がある(真説・俗説については不明)。
つかまえるという意味の「捕縛」(ほばく)や、しばるという意味の「縛(ばく)」という語が あります。 これらの動詞形の「縛る」(ばくる)の語が、bからpに変化して「ぱくる」

おれが高校3年生の時、1960年安保条約
改定があった。いわゆる60年安保。以下は
ネットからのコピー。

岸は昭和35年(1960)1月16日に全権委任団を率いて米国に出発し、19日に新安保条約に調印した。この前後のデモは散発的だった。 転換点は、昭和35年5月19日の衆院本会議だった。 第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)の訪日予定日は6月19日。それまでに何としても新安保条約を承認する必要があった。社会党は審議拒否に入り、参院審議は望めず、もはや衆院で可決した条約案を憲法61条に基づき30日後に自然承認させるしかない。タイムリミットは5月20日だった。 19日午後10時半、本会議開会のベルが鳴ったが、社会党議員や秘書がピケを張り、議長の清瀬一郎は議長室に閉じ込められたまま。清瀬は院内放送で「名誉ある議員諸君、このままでは議長の行動も自由になりません」と呼びかけたが、埒(らち)が明かない。 11時5分、清瀬はついに警官隊を動員した。警官隊とピケ部隊の乱闘の中、間隙(かんげき)を突いて清瀬は本会議場に突入し、11時49分に自民党だけで50日間の会期延長を可決した。 清瀬は岸らと協議の上で強行策に出た。いったん散会を表明し、20日午前0時5分に再び開会。そこで新条約承認案を緊急上程し、強行採決した。 「アンポ反対」「国会解散」「アイク訪日阻止」「岸倒せ」−。5月19日を境に安保闘争は、岸への個人攻撃にすり替わり、国会周辺のデモは雪だるま式に膨れあがった。 それでも当時のデモは牧歌的だった。男はワイシャツ姿や学生服、女はスカート姿も多かった。もっとも過激とされた全学連でさえ基本的には非暴力戦術をとり、70年安保闘争のようにヘルメットにゲバ棒で武装する人はいなかった。
流行したのは、両手をつないで並んで進む「フランスデモ」。仕事帰りのデート代わりにデモに参加するカップルも多く、デモの合間を縫うようにアイスクリーム屋が「アンポ反対アイス」を売り歩いた。 岸もしばらくは余裕綽々(しゃくしゃく)だった。東京・渋谷の岸邸は連日デモ隊に囲まれたが、記者団に「声なき声に耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」と語り、自宅では普段通りにくつろいだ。5歳だった孫の安倍晋三が「アンポ反対!」とまねたときも目を細めた。 6月19日の自然承認。期限を切ったことは、安保闘争に「目標」を与える結果となり、6月に入るとデモはさらに肥大化した。

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