mixiユーザー(id:3312163)

2015年04月26日22:54

747 view

今日の「花燃ゆ」

いよいよ前半のクライマックス回です。

全く知らない人が見たら、かつてペリー来航の時も密航に失敗してから自首したり、今回も黙っていれば無罪放免になった可能性もあるのにペラペラと余計なことをしゃべって、吉田松陰ってバカだったの?と思うかもしれません。

しかし、松陰先生ご自身が「愚直を貫け」と高杉に言われたように、御自らも愚直を貫かれた、そしてその背後には大いなる志があった。
すべて、井伊との直接対決のための設定だったということですね。
だから、罠と知りつつ自ら罠の中に飛び込んで行かれた。
最初はそれがかなわなかった時の「悔しい」と泣かれた時の松陰先生のお顔、今回の伊勢谷松陰も38年前の大河の「花神」の篠田松陰も、どちらも同じ顔でした。
本物の松陰先生の魂(精神)が両役者に乗りうつったのかもしれません。
(霊が憑依したとか、そんな意味ではないですよ)

小田村は松陰先生を諌めるために江戸まで行ったのに、逆にたき付けてる。
それでいて「生きろ」と言う。
これは一見矛盾しているようにも聞こえますが、「生きろ」の意味はおめおめと生きながらえろという意味とは違うと思います。
自分の信念、志を貫いて精一杯生きぬいて燃え尽きよという意味と感じました。

そして井伊との直接対決。
松陰先生のお説も正論ですが、井伊の言うことにも一理あると感じました。
井伊の立場からすれば、井伊にとってはあの井伊の言い分こそが正論でしょう。
どちらも同じく国を憂いている、どちらが正義でどちらが悪ということもない…どちらが正しくてどちらが間違っているということもない…ただ、立場が違うということだけだったのだと思います。

ただ、「史実バレ」を書いてしまいますと、この松陰先生と井伊直弼尾の直接対決はフィクションです。
最初の取り調べで幕府の役人たちは松陰先生に何の落ち度も見いだせなかった、までは史実です。
でもそのあと、松陰先生が間部を諌めようという計画があったことを自ら切り出します。これも史実。
でも、その時の松陰先生の本意は、もうあの計画はすでに幕府に知れ渡っているだろうから、変に隠し立てしたら後で状況がまずくなると判断して、半ば自首のような感覚で申し出たのだと、松陰先生自らが書き残しています。
しかし、そのことを告げて初めて、実は幕府はまだ何も知らなかったということを知って、しまったと後悔したとも書いています。
しまったというのは、自分の身が危ないということではなく、他の同志たちにとばっちりが及びはしないかと心配されてのことだそうです。

もちろん松陰先生はすべてをあからさまに語ったのではなく、そこは今日のドラマのように諌めるだけで間部を刺す気などはなかったと強調しましたが、そのあとで幕吏の方がどんどんと話をでっちあげ、間部と刺し違えるつもりだったという嘘の自白書を作成して無理やり署名させ、それで死罪が決定したというのが真相のようです。

もちろん松陰先生が井伊直弼と直接対面したという史料はありませんから、今日の対面シーンはドラマ上のフィクションなんです。

いずれにせよ、松陰先生の最期は描き方があっけないといえばあっけなかったけれど、簡潔に、そして松陰先生自らの遺言ともいえる「留魂録」の一節の朗読をバックに映像が進みます。
芸術的な、感動的な描き方だったともいえるでしょう。

松陰先生の辞世の句とされている「親思う心にまさる親心 今日のおとずれいかに聞くらん」は、「留魂録」には載っていません。
最後の「紀行」の時に写真が映った「留魂録」の冒頭の歌も、松陰先生辞世の句として有名です。

身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂

(この歌と、松陰先生がペリーの黒船に乗りこんでの密航失敗の時に詠まれた「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」を、混ぜてごっちゃにして覚えている人もいるので要注意)

ちなみに「身はたとい〜」の歌は、新選組の土方歳三の辞世の句「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」と、上の句が酷似しているような気もするのですが、偶然の一致でしょうか?
それとも、土方も実は松陰先生のことを慕っていたとか?(まさかね)

ちなみに、ラストのところの朗読は、以下の通りでした。
 「今、私は死を前にして心安らかです。今さら誰を恨もうという気もありません。それは命についてこう覚ったからです。春に種をまき、夏に苗を植え、秋に実り、冬は蓄える。人にも同じように四季があります。
 人の生とは歳月の長さではない。十歳で死んでいくものは十歳の中、二十歳で死ぬものは二十歳の中にそれぞれ春夏秋冬があり、実を結んでいる。私は三十歳ですが、収穫の時を迎えたと思っております。もし同志の中で、私の心を継いでくれる人がいたら、その身は空(から)ではない。どうか次の春の種となれますよう」

これは、上記の「留魂録」の一節です。それを現代語に直して、また要点のみをかなりギュッと凝縮していますね。

その部分の原文は以下の通りです。
 「一、今日死を決するの安心は四時の順環に於て得る所あり。蓋し彼の禾稼を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。秋冬に至れば人皆其歳功の成るを悦ひ、酒を造り醴を為(つく)り、村野歓声あり。未だ曾て西成に臨て歳功の終るを哀しむものを聞かず。
 吾行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざるに似たるは惜しむべきに似たり。然れども義卿の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり。何ぞ必ずしも哀まん。何となれば人事は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。十歳にして死する者は十歳中自(おのづか)ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。十歳を以て短とするは《虫惠》蛄(けいこ)をして霊椿たらしめんと欲するなり。百歳を以て長しとするは霊椿をして《虫惠》蛄たらしめんと欲するなり。斉しく命に達せずとす。義卿三十、四時已に備はる、亦秀で亦実る、其の秕(しひな)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。若(も)し同志の士其の微衷を憐み継紹の人あらば、乃ち後来の種子未た絶えず。自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。同志其れ是れを考思せよ」

また、留魂録の最後にはまた何首かの松陰先生の歌があります。
これらも辞世の句と見るべきでしょう。

 「心なる ことの種々(くさぐさ)書き置きぬ 思ひ遺せることなかりけり
  呼び出しの 声待つ外に今の世に 待つべき事のなかりけるかな
  討れたる 吾をあわれと見ん人は 君をあがめて夷(いてき)払へよ
  愚かなる われをも友と愛(め)づ人は わがとも友と愛でよ人々
  七たびも 生きかへりつゝ夷(いてき)をぞ 攘(はら)はむ心吾忘れめや

   十月二十六日黄昏書      二十一回猛士


さて、これまで兄の松陰先生の陰に隠れていた主役の文ですが、松陰先生亡き後これからは主役として独り立ちしていかなくてはなりません。
期待しています。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する