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2015年03月27日22:32

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ゴキブリコンビナート『粘膜ひくひくゲルディスコ』

 観劇の記憶を紐解いていると収拾がつかなくなってしまったのだけれど、なんといっても強烈だったのは、やはり、ゴキブリコンビナートによる『粘膜ひくひくゲルディスコ』という舞台だった。たしか1998年の公演だから、もう17年も前のことになる。そんな昔だから、かなり記憶も変成しているとは思うのだけれど、今でも始末に手こずる感慨を植えつけられてしまっている。

 タイトルからしてすでにアレだけれど、チラシも相当にひどくてコンビナートにゴキブリ、赤ん坊の体に老人の顔がコラージュされていたりして、本当に気持ち悪い。部屋に置いておくと裏からカサコソと黒光りする虫が這い出てきそうな感じがして、捨ててしまった。今でも、「せっかくだから、とっておけばよかった」みたいなことはまったく思わない。なぜしばらくは保持していたのか、われながら不思議なくらいである。
 そんなチラシをみてなぜ行ったのか自分でもよくわからないけれど、当時は「どんなお芝居でも観に行こう」という清新な気風に満ちあふれていたころなのかもしれない。

 会場はたしか代々木駅から歩いて行ったフジタヴァンテだったと思う。入場時にどういうわけか新聞紙を渡されて、すごく不安な気分にさせられた。さらに奥へ足を踏み入れると円形の舞台が中央にしつらえてあり、客はその周囲をぐるりと取り囲んで観るようになっていた。舞台上には開演前から主演の男性がほぼ全裸で四つん這いになり、ときおり「おんおん」と犬のように鳴いている。股間に申し訳程度のものをはめて隠しているのだけれど、中途半端にちらちら見えるせいで、フルチンよりよほど気になる。横にはフリルのついたドレスを着た女性がいて、おそらくわざと下手くそにヴァイオリンをキイキイ鳴らしていた。

 で、いよいよお芝居が始まって、舞台に上がったスーツ姿の男性が盲目の小学生による、「僕は目が見えないけれど、みんながよくしてくれてなに不自由なく勉強しています」みたいな作文を読み上げるのだけれど、続いて舞台に上がったその小学生は実際には視覚障害をさんざん級友たちにからかわれ、馬鹿にされているのだった。
 帰宅した目の見えない小学生は彼にあてがわれたコンパニオン・アニマル、開場前に舞台の上で「おんおん」と声をあげていたこの芝居の主人公に学校での鬱憤をぶつけて虐待する。
 少し前に盲導犬が切りつけられるという事件があって、ネットでも卑劣なことをする人間がいるものだと話題になっていた。私もこれは気になっていて、たしかに盲導犬なら危害を加えても抵抗しないだろうけれども、そもそもその発想に至る人間というのは、どういう類型に属するのかちょっと想像がつかなくて不思議だったのである。世の中、図に乗る人間はいくらでもいるけれど、盲導犬に矛先を向けるのはそういうものの延長にはない気がしていた。
 しばらくして判明したところによると、犯人は知的障害の青年とのことだった。みんなしょんぼりしてしまって、あっという間に誰もなにも言わなくなってすぐ忘れ去られたのだけれど、それを先取りしていたような導入である。

 さて、このコンパニオン・アニマルの主人公、基本的には人間だけれど四肢がすべて足なのだった。なぜそうなったのかといえば、知的障害の母親が相手のわからない子どもを生んでみるとこれがシャム双生児で、母親はとっさに赤ん坊を胎内に戻そうとし、出産に立ち会った人間は引き出そうとしたので綱引きを演じることになり、結果、母親の胎内には四肢がすべて手の弟が残り、兄は四肢のすべてが足となって生まれ出たのだった。
 小学生のもとを逃げ出した主人公は、生き別れ(?)の弟に会おうと母親の胎内へと戻っていく。すると、そこは生まれえなかった者たちのパラダイス、粘膜ひくひくゲルディスコで、彼らは楽しく笑いさざめきあっているのだった。ここの演出がまた悪質で、愛くるしい着ぐるみたちが舞台やその周囲に現れ、

♪粘膜ひくひくゲルディスコハート(黄)

 可愛く歌い踊るのである。意図としては、ここで観客にも一緒に踊ってほしいのだろうけれども、こっちはとてもではないがそんな気分にはなれない。

 そして、主人公に試練が与えられる。目隠しをされ、攻撃を受ける。主人公は動転し逃げ惑うが、やがて、気づく。
「見ようとするんじゃない、感じるんだ!」
 主人公は攻撃をことごとくかわすようになり、そこへ可愛い掛け声がかかる。
「ステージ・クリアー!」
 試練を乗り越えた主人公の前に母親が現れ、彼はまたその胎内へと入っていく。
 つまり、母親の胎内にまた母親がいて、どんどん入れ子構造になって入りこんでいくのである。そこには深い寓意が込められているのかもしれないし、単純にシーンをつないでいったら、そうなっただけかもしれない。
 こうして主人公はどんどん試練を越えていくのだが、この試練というのもあっという間にネタ切れになってしまい、主人公がいきなり縛り上げられ一方的にしばかれただけなのに、
「ステージ・クリアー!」
 の掛け声がかかって、なにもせず次に進んだりしている。やがて、彼は弟と再会する。

 こんな話、どうやって終わるんだと思っていたら、ラストシーンはこういうものだった。
 いかにもマッドサイエンティストっぽい男が舞台上に現れる。
「わしはついに最強の兵器を開発したのじゃ。これからその最終試験を行う」
 傍らには囚人服を着た怯えた表情の男。実験台であろう。そこへ例の母親がやってきて、その胎内から主人公や弟、生まれえなかった者たちが現れ、
「楽しいじゃないですか楽しいじゃないですか」
 と騒がしく連呼しながら囚人服の男をその中に取りこみ、一緒になって胎内へと還る。舞台暗転。ライトアップされたマッドサイエンティストが両手を広げて叫ぶ。
「成功じゃ!」
 舞台ふたたび暗転。終わり。

 実を言うと、このラストだけはなぜか得心がいった。
「まあ、たしかにこうでもしないと終わらないよな」
 と思った。しかし、それ以外は無茶苦茶であり、当時は煙草を吸っていたので、思いっきり肺にニコチンを充満させてからガバーッと吐き出し、お金はドブに捨てたと思って諦めるとしても時間は返してほしいと毒づいたりしていた。
 当時から職場で演劇の話題を出したりはしなかったが、これだけはどうしても胸の内に収めておくことができず、自分の観た芝居がいかにひどいものであったか、数千円と数時間を費やして手にした対価がいかに見合わないものであったか、会う人会う人に愚痴りまくった。
 しかし、みなニヤニヤ笑うばかりでいっこうに共感してくれたり、慰めてくれたりはしなかった。むきになった私はさらにこの芝居のどこがひどいか、微に入り細をうがって力説するのだけれど、こちらが熱を入れれば入れるほど、むしろ、相手はニヤニヤ笑うのだった。

 他人の不幸は蜜の味ともいうが、しかし、他人がひどい目にあった話として聞くぶんには、上記のストーリーは十分におもしろい気はする。いや、あらためて思い返してみると、やはり、すごいことはすごいのである。障害や奇形、差別や偏見やいじめなどがこれでもかと詰めこまれているが、過激なことやひどいことを客の前で演じてみせて悦に入りたいだけなら、たしかにこういう展開にはならないと思う。
 世界には嫌なことや醜いものが厳として存在しているにも関わらず、隠蔽したり目を背けたり、甚だしくはないものとされていることに対する、作者の異議申し立てや違和感の表明がこういう形でなされているのではないだろうか。この人にはこれしかないのだろうという切実さはたしかに感じる。

 でも、この芝居はこの劇団としては最もおとなしいらしくて、せいぜいドッグフードがぱらぱら飛んでくるだけだったけど(入場時に配られた新聞紙はこれをよけるためのもの)、他はだいたいドロドログチャグチャのものがぶちまけられたり、観客の間を豚が走りまわったり糞を漏らしたりすらしい。そんなものは絶対に無理である。以降、この劇団の公演に行ったことはないし、今後もないと思う。

 ここ数年は公演が途絶えているけれど、むしろ、イベントなどで活動しているらしい。たしかにそっちの方がいいかもしれない。今後も頑張ってもらいたいと思う。私とは関係のないところで。

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