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2015年03月17日13:51

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最近、考えたこと。Part0005-3

{論考が長すぎて10000字以内に収まらなかったので分割、そして続き}

 2年近い虜囚生活の果てにイギリスに脱出したリトビネンコ中佐はまるで浦島太郎だった。たった2年の間に世界は変わってしまった。民主的に選ばれた大統領は追放され、戦争がはじまり、権力を握ったのはなんとあのプーチンだった。だが、長年マフィア相手に戦い続けた不屈の中佐はあきらめなかった。国内に残った元部下たちと連絡を取り合い、イギリスで出会った仲間達と共に情勢を分析した。そして、また気付いて仕舞ったのだ、チェチェン戦争と連続爆破テロの真相に。。。今度はためらわなかった。中佐はロンドンから今や大統領となったウラジミール・プーチン元FSB中佐に宣戦を布告した。今度の武器は本だった。それが2002年に出版した『Blowing Up Russia:Terror From Within』(「ロシアを爆破したKGB」)と『Gang from Lubyanka』(「ルビヤンカのギャングども」)だった。その中で、リトビネンコ中佐は諸資料を分析、特にリャザンの爆破テロ未遂事件に着目して連続爆破テロが第2次チェチェン戦争を引き起こすための口実としてKGBが自ら行った自作自演であることを暴露した。また、プーチンはじめ多くのFSB幹部職員が犯罪組織と繋がり多くの組織犯罪の温床となっていたことも実名入りで告発した。また、2002年10月に起きたモスクワ劇場占拠事件(死者129人)や2004年9月に発生したベスラン学校占拠事件(死者500人以上)でも事件発生直前に現場から脱出した謎のテロメンバーが複数おり、事件を誘導したFSB工作員だった可能性を指摘している。

ちょっと話がずれるがこの二つの残忍なテロ事件についてコメント。酷過ぎる。犯人以上に討伐部隊がだ!モスクワ劇場占拠事件ではコロコル(釣り鐘の意味)と呼ばれた特殊ガスが使用された。その副作用から麻薬性麻酔薬フェンタニルではないかといわれているが子細は不明だ。ベスラン学校占拠事件においてはなんと気化爆弾が使われている。正気か?コロコル特殊ガスの方は129人もの人質が窒息死したようにもともと使い方がとても難しい上に(病院でさえ専門の麻酔科医が付きっ切りで使う)FSBの秘密主義の為に現場の人員に何の治療情報も無かった為に次々と人質を死亡させてしまったが、まだズサンでヒサンではあるが不慮の事故の可能性もある。しかし、気化爆弾は別だ。火薬は燃焼速度が速いが実はエネルギーそのものは少ない、しかも酸化剤を混合するのでその場の酸素を使う気化爆弾は通常の火薬爆弾と比べて単位重量当たりざっと20倍もの破壊力がある。大型のものだと準核兵器といわれるほどの破壊力があるしろものなのだ(最大のものは最小の核兵器の1/10の破壊力がある)。それ普通、人質救出作戦に使うか?しかも、子供たちに対して?絶句。討伐部隊の頭が正常なら絶対に使わない。現場に持ち込む事さえ在り得ない。気化爆弾使用でおいらは確信したよ。討伐部隊は人質を救出しようとしたのではなく可能な限り多くを殺そうとしていたんだってことを。ベスラン事件では170人以上の子供達が生きたまま粉々になるまで吹き飛ばされて今も行方不明扱いだ。くっされ!

 さて、話を元に戻そう。リトビネンコ中佐のロンドンでの活動に激しい憎悪を燃やしたのがプーチン大統領だった。リトビネンコ中佐は2度にわたって大統領自ら仕組んだ「特殊工作の罠」を潜り抜け生き延びた唯一の男だった。断じて生かしておくことはできなかった。3度目の特殊工作の準備は4年の歳月をかけ入念に行われた。2006年11月KGB第二総局第13課(別名V局)の特殊工作員アンドレイ・ルポゴイ率いる暗殺チームがロンドンに到着。その前月、射殺されたアンナ・ポリトコフスカヤ女史暗殺事件についての証言を餌にリトビネンコ中佐をロンドンのすし屋に呼び出し高放射性物質ポロニュウム210を投与した。三週間後、中佐は泣きながら憤る共著者に「プーチンの長い手がついに俺に届いただけだ、気にするな」と言い残して亡くなった。その昔のロシアに二人の中佐がいた。1人は虚飾と権力を望み、一人は自由と真実を求めた。勝ったのは最低男の方だった。合掌。

 さてと、暗殺で終わりを告げたリトビネンコ中佐の「反乱」は人々が思う以上に大きな影響を東欧の国々に与えた。これから、それを語ろう。また、少し時間を戻して1991年12月のベロヴェーシの森に話は遡る。この歴史的な会議を主導したのはエリツィンではもちろんなく氏名不詳のKGB高官だった。クリュチコフ長官なのかコルジャコフ将軍なのか正確なことはたぶん永遠にわからないだろう。呼ばれたのはエリツィン・ロシア大統領、シュシケビッチ・ベラルーシ最高会議議長、クラフチュク・ウクライナ大統領の三人だった。この三人の内はエリツィンとクラフチュクの二人は実によく似た経歴の持ち主。二人ともブレジネフ腐敗政治時代に共産党に入党しゴルバチョフ時代に大幹部に昇進する直前に失脚して離党している元共産党幹部。シュシケビッチは日本でいう民族系の大学教授でおそらくはKGBの非公然メンバーだっただろう。ロシアでは元共産党幹部が追放されKGBの公然メンバーが一挙に権力を握った。ベラルーシではKGBの非公然メンバーから1994年6月にKGBの公然メンバーで「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれるアレクサンドル・ルカシェンコへと政権が移った(今年で22年目!)。問題はウクライナだった。エリツィンそっくりのクラフチュク大統領は思いがけず民族主義的行動に出る。ウクライナのKGBを大統領直属の組織に改組し、SBUとしてロシア本土から独立させたのだ。KGBはしまったと歯噛みしたがもう遅かった。ソ連南部軍を継承し、80万の兵力が5000発の核兵器で武装している状況ではさすがのKGBも直接手出しは出来なかった。ここから、ウクライナの政府・国民を巻き込んだ長い長い暗闘の歴史が始まる。

 まずは核武装の解除が先決だった。これにはいい方法があった。核拡散防止条約である。核拡散防止条約にウクライナを加盟させさえすれば、五大国(国連安保理常任理事国)ではないウクライナから核を取り上げる事が出来る。ありとあらゆる工作がウクライナへ向けて行われた。デマ・密告・寝返り・買収・脅迫・潜入・・・エトセトラ。当初は上手くいった。1994年6月選挙に事借りて、民族主義的な共産党の元幹部であるクラフチュク大統領を追放しKGBの非公然メンバーであるレオニード・クチマ元首相を大統領にもつけた。1994年12月にはブダペスト・メモランダムを取り付け核拡散防止体制にウクライナを組み込むこともできた。後はKGBの公然メンバーであるヴィクトル・ヤヌコーヴィチに政権を取らせベラルーシ同様の独裁を敷かせればいい。。と、そうは問屋がおろさなかった。まず、SBU内部でKGBとの協調を訴える一派と独立国の保安機関としての任務を優先させるべきだという一派との間で激しい葛藤が始まる。おそらく、まずそれはチェチェン戦争への対処路線の違いとして表面化したに違いない。また、一人に人物でも時期や情勢によって考えが入れ替わる複雑な様相を見せ始める。1998年ロシアへの核兵器の移送が完了したあたりからそれは本格化した。

 1998年、ウクライナ前首相パーヴェル・ラザレンコ議員がスイスにおいて詐欺罪で逮捕されるという謎の事件が起きる。パーヴェル・ラザレンコ議員は後に首相となるユーリヤ・ティモシェンコ議員のボスであり、独自通貨フリヴニャを導入した財務系のテクノクラート。この辺の話は正に水滸伝的世界で白か黒かひじょー見極めがに難しい。ただ、SBUがKGB的一枚岩の団結によって運営されていたのならこの事件はけっして公にはならなかったはずだし、少なくとも国内で「処理」していただろう。ラザレンコ議員は首相退任後、クチマ大統領の会派を離脱し「共同体党」という野党を立ち上げている。これを契機に最高会議議員の半数が無所属で残り半分が共産党とその分党というふざけ切った状況をウクライナは抜け出して本格的な政党政治へと移行していくが、当の「共同体党」は帰国したラザレンコ議員がアメリカに亡命したあげくに逮捕されてしまったため解体されてしまい残されたユーリヤ・ティモシェンコ議員達は「祖国党」を結成して政治活動を再開する。クチマ大統領は逮捕されたラザレンコ議員の跡目に共産党系のワレーリー・プストヴォイチェンコ大臣を充てるがこれが対外債務の繰り延べ交渉に失敗。やむえず、再び財務系テクノクラートのヴィクトル・ユシチェンコ国立銀行理事長を1999年12月、首相に任命する。そんな中で決定的な事件が起きる。

 2000年9月16日インターネット新聞を発行するジャーナリスト、ゲオルギー・ゴンガゼ記者が誘拐された。此処までは悲しい話だがそれはウクライナではありふれた事件だった。クチマ政権下では政権に批判的な38人のジャーナリストが謎の死を遂げていた。だた、ここからが違った。そのわずか6日後、SBUのスポークスマンは突然クーデター計画の存在を明らかし、その阻止に成功したと発表した。さらに2日後、クチマ大統領はGUR(ウクライナ参謀本部情報総局)総局長イーゴリ・スメシュコ中将を突如解任した。なにかが起こっていることは明らかだった。2000年11月16日、ゴンガゼ記者はキエフ近郊で正体不明の12人の遺体と共に頭部のない遺体となって発見される。そのわずか2日後社会党のモロス党首によって大統領警護官ニコライ・メリニチェンコSBU少佐の録音したゴンガゼ記者殺害命令を記録したクチマ大統領の肉声テープがウクライナ最高会議で公表された!!!ウクライナ内外は大騒ぎになった。明らかに保安機関内部の激しい葛藤が全面対決となりその一部が表面化したものだった。ついで、2000年12月8日、すでにイギリスに脱出していたメリニチェンコ少佐のビデオ・メッセージがボリスポリ空港でSBUに没収される事件が起こる。没収されたのが3人の最高会議代議員だったことから問題は捜査の違法性に移り、ウクライナ最高会議はレオニード・デルカッチSBU長官とユーリー・ソロフコフ関税委員会議長を緊急解任するよう大統領に勧告した。だが、翌日、デルカッチSBU長官が代議員の資産情報の提供を要請する照会状を一連の国の法執行機関に送ったこと判明して火に油を注ぐ結果になってしまう。クチマ−デルカッチ−ソロフコフ・ラインとユシチェンコ−スメシュコ−メリニチェンコ・ラインの対決であることは明らかだった。クチマは大統領職にあった、ユシチェンコは議会を抑えていた。力は拮抗していた。ロシアだったら1993年実際そうであったように戦車が出てきて議会を武力制圧しただろう。クチマはそうしたかったに違いない、だがウクライナではそうはならなかった。軍を監察するSBUが分裂していたからだ。その状況で武力制圧を強行すればその場で内戦が始まる。これに驚いたのが、就任直後のプーチン大統領だ。緊急訪宇しクチマ大統領を説得した。結果、政権批判の急先鋒だったティモシェンコ議員が逮捕され、ユシチェンコ首相が更迭、同時にデルカッチSBU長官を解任され、ウクライナ・シロビキのボス、ヴォロドィームィル・ラドチェンコ元長官がSBU長官に再任された。つまり、痛み分けになった。クチマ的にはラドチェンコにSBUを再建させその後(議会の武力制圧を含む)体制立て直しを行う予定だったのだろう。だが、これも裏切られることになる。

 つまずきの根本は2003年9月の謎の人事だった。SBU再建を担っていたはずのラドチェンコ長官が突如解任され、追放されたはずのイーゴリ・スメシュコ中将が外交官として赴任していたジュネーブから呼び戻されSBU長官に任命されたのだ。???。また、外からはうかがい知れない何かが起こっていた。どうも、クチマ大統領失脚のプロットがKGB内部で進んでいたらしい。2004年、クチマ大統領は年末の大統領選挙出馬を断念、KGBの公然メンバーで前首相のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ地域党党首を後継者に指名した。これが間違いだった。あまりにも玉が悪すぎた。

 ヴィクトル・ヤヌコーヴィチは1950年生まれのアナーキストのKGB工作員。組織暴力団ピフノフカ組の組員として強盗と強姦を繰り返し20代の大部分を刑務所で過ごした元暴力団員。1978年にKGBに末端工作員としてリクルートされ、主として輸送業者に対する政治・情報工作を20年間にわたって担当した。その後、ウクライナ独立に伴い、政治工作員に抜擢され1996年にドネツク州の副知事に就任されるとあれよあれよという間に出世して6年後の2002年に首相に就任しその8年後の2010年には大統領となる。ウクライナ最高検察庁の報告によれば在任中、1000億ドル(10兆円)の税金・国有資産を着服!!!キエフ郊外に40万坪の豪邸を営み南米と並ぶ世界的な美人の産地であるウクライナ選りすぐりの美女たちを毎日毎日とっかえひっかえどんちゃん騒ぎを繰り返すというなんともうらやま・・・じゃなくて、けしからん、とってもけしからんぞーー(笑)という暮らしをしていた男。これが、大統領じゃたまらんと2014年に反乱がおこってロシアに逃亡した。ちなみに2011年1月には日本を訪問し最高勲章・大勲位菊花大綬章を授与されてる。誰だーー、こんなの陛下の前に連れて行ったのは!と調べてみたらやっぱり菅直人だった。ほんと、あのゲス野郎やめたあとも延々と日本国民にたたりやがる。ホント誰か何とかしてくれーーー。とほほ。

 話が先に行き過ぎた。元に戻そう。2004年、3回目の大統領選挙が行われ野党をまとめたユシチェンコ元首相とヤヌコーヴィチ前首相の一騎打ちとなる。ヤラセではなく与野党が激突する本物の選挙は初めてなのでKGBの工作は熾烈を極めた。なんどもなんどもユシチェンコ候補には助言とか警告とか呼ばれる脅迫が行われ。9月には政府関係者との会食の直後倒れ、その体内から基準値の6000倍の濃度のダイオキシンが検出される事件が発生。「アラン・ドロン」風のイケメンだったユシチェンコ候補の顔は「腐りかけのゾンビ」みたくなってしまった。11月の選挙はヤヌコーヴィチ1500万票対ユシチェンコ1400万票でヤヌコビッチは勝利を宣言するが、国際選挙監視団は1万1000件の選挙違反を告発。「アラン・ドロンを腐りかけのゾンビ」にされて怒り心頭のユシチェンコ候補は支持者と共に最高会議で大統領就任を宣言。臨時政府にあたる護憲調整会議を組織する。クチマ大統領はSBUと内務省(警察)に国会奪還を命じるが保安機関は再選挙を主張してこれを拒否。すったもんだの協議の末行われた、ひと月後再選挙はヤヌコーヴィチ1300万票対ユシチェンコ1500万票でユシチェンコ候補が当選した(人呼んでオレンジ革命)。どうも、クチマとヤヌコーヴィチは秘密裏にヤヌコーヴィチ+200万票、ユシチェンコ−100万票の投票操作を行っていたらしい(笑)。当選した、ユシチェンコ大統領は首相に盟友ユーリヤ・ティモシェンコ議員を任命、やり手のビジネスマン、オレクサンドル・トゥルチノフ議員をSBU長官に任命してゴンガゼ記者殺害事件の再捜査を命じる。真相は恐るべきものだった。まず、昼は警官、夜は殺し屋という必殺仕事人もビックリの警察内部の暗殺組織「妖怪団」が摘発され3人の警察官が逮捕された。しかし、それを組織した内務省高官がイスラエルに逃亡(後にイスラエル警察に逮捕されウクライナに移送)。さらに、それを使って暗殺を命じていたユーリー・クラフチェンコ内務相がキエフ郊外の別荘でピストル自殺してしまったため、それ以上の捜査は頓挫してしまう。そのうえ、なぜか半年たたずユシチェンコ大統領とティモシェンコ首相が対立。おかげでヤヌコーヴィチが首相として返り咲いたあげくに2010年に大統領として当選してしまう。敗北の責任は明らかにティモシェンコ首相にあった。美人で強引で腕利きのビジネスウーマン、一部ネットではリアル峰不二子とかリアルドロンジョ様と呼ばれてる人だけど政治家としては懐が狭く無用に前に出過ぎた。おかげで敗北後は仲間を道ずれにム所へ逆戻り(民間時代を含めて4回目)。いまはよーやく釈放されたみたいだけど、願わくは今後は得意のビジネスの方で活躍してい頂きたいもんだね。

 権力を握り、やりたい放題やっても足元をしっかり作っていれば割と持つもんだが、ヤヌコーヴィチはただのアホだった。SBUの掌握も軍の統制も外国であるロシアのKGB任せにした。KGBの要請(つまり命令)はどんなものであれ法律も憲法も無視してめくら判を押した。最初は一応、民主的に選ばれた大統領だからと我慢した。だが、いけどもいけど事態は悪くなるばかりだった。2013年11月29日、ウクライナ最高会議の議決に違反してKGBの要請どうり仮調印まで済ませたEU(ヨーロッパ連合)との連合協定を握りつぶした時、おとなしいウクライナ国民もついに堪忍袋の緒が切れた。続々とウクライナ最高会議前の独立広場(マダイン)に押しかけ、今まで違法行政を糾弾して大統領弾劾を訴えた。ヤヌコーヴィチは軍の出動を考えるも再びSBUはこれを拒否。やむえず12月1日、自分と同じKGBの工作員を大量に配置していた警察部隊に発砲を命じた。鎮圧部隊は人質救出作戦に使う、スナイパー・ライフルをデモ隊に使用、独立広場は一挙に地獄と化す。旗を振って抗議する市民が次々と狙撃され倒れていく。手製の盾を振りかざし救出に行き犠牲者を物陰に引きずり込んだ途端自分も撃たれてしまう男性。撃てども撃てども暴挙に怒り狂った国民は続々と広場に集まってきた。2014年2月22日ヤヌコーヴィチ大統領がロシアへ逃亡した後ウクライナ最高会議は大統領を解任、トゥルチノフ議員に大統領代行を命じ100人以上市民を犠牲にしてようやく事態は終結した(ユーロマダイン運動)。

 しかし、ほんものの危機はここからだった。直後、ロシアは空挺二個師団を動員、電光石火クリミアへ侵攻してこれを占拠。ユーロマダイン運動後、逃亡した元警察官のKGB工作員を主力として、ハリコフ・ドネツク・ルハンシク三市の公共施設を襲撃。ハリコフはすぐ奪回されたが、ドネツク・ルハンシクの二市が占拠されてしまう。6月急遽行われた大統領選挙で選出されたポロシェンコ大統領はこの事態に激怒。7月、軍を投入してドネツク・ルハンシクの奪回を命じた。元警察官のKGB工作員&急遽金で雇った地回りのヤクザと重武装の正規軍じゃ勝負にならない。8月いっぱいで軍はほぼ反乱軍を制圧しかけたが、運命の8月28日、約機甲二個旅団のロシア正規軍がロシア・ウクライナ国境を突破。今次大戦「ニュー・ワールド・ウォー(まだ名は無い)」が始まった。 ほんとは状況分析等も書きたいか現状把握の導入編なんで今日はここまで。ふーー疲れた。原稿用紙で67枚分書いたよ。われながら長すぎ。とほほ。

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