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2015年02月18日20:48

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新実が最後に希望するであろう祭壇にオウムの神は据えられるだろうか?

■「今でも救済と確信」=サリン事件で新実死刑囚―高橋被告公判・東京地裁
(時事通信社 - 02月18日 19:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3280300

是非の問題は、とりあえず措く。

「事件としての是非」は犯罪として
裁かれ、死刑に服する事で決着するからだ。
これは、宗教裁判でも異端審問でもない。

これを前提として。

新実のこの発言を鑑みる。

恐らく、オウム(後継、改名団体を含む)は
こうしたサリン事件他「オウムの犯罪」によって
受刑乃至は裁判を受けている連中との関わりは
持たないであろう。
薮を突つく結果となるのは目に見えているからだ。

だとするならば。

新実は、その後の「追洗脳」を施されずに、
恐らくは自分自身の力によって、それをしている、
という事になる。

洗脳とは、「誰かがするもの」である。
そして、その効果は大概は切れ易く、それ故に
宗教団体、自己啓発セミナなどは「継続して」
それらに関わる事で「追洗脳」していく事により、
更なる忠誠や、金品を被洗脳者から巻き上げて行く。

その「注入」がないにも関わらず、これを維持する
(誤った方向への)努力は、一種寒気がする程
強烈な印象だ。

新実のナイーヴさ(学生時代に地元駅で二度目撃した
人身事故により「死とは何か」を考えたり、前世に
酷く執着したり、と云った「死への恐怖」による)は、
オウムの犯罪に関わりつつも時折顔を覗かせたらしいが、
やがて、消えて行く。我々のよく知る仮面のような
固定された表情の新実は、その後の姿であろう。

だからこそ、彼は気付きたくはない、のだろう。

麻原の四女と接見した際、「全てはシヴァ神の思し召し」と
云う新実を猛烈に批判した四女に、「責めないで欲しい、
責めるのであれば接見はとりやめる」と云うなど、
新実の「オウム真理教」というのは、案外に脆い。
当然だ、既成宗教の目立つ処を適当につぎはぎして、
無理矢理体裁を整えただけの代物なのだから。
綻びや歪みが生じるのは必然。

だが、それでも、新実には「それしかない」のだ。

そしてそれは、最早既に「無間地獄」と云ってもいい日々なのだろう。
あの世も地獄も、存在はしない。
一番近いそれは、現世であろう。
新実は、今誰よりも近く、そこにいる。




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