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2015年02月04日21:22

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二つの緑色の月。

 僕は、その時月を見つめながら暗い路地を歩いていた。
その路地は毎日の行き来に使っている道であり、目をつぶっては歩けないが、
片目くらいはつぶって歩ける程度には馴れたそれだった。
 ましてや今日は、煌煌と月が明るい。
 真上を見ながらでも、何の危険も感じられなかった。
 月は冴え冴えと、輝いている。その少し端の欠けた、円というには
少しだけはばかりのあるそれは、光り輝いているのに奇妙に冷たく、
星であるにも関わらず、摘めば何の抵抗もなくその形を変えてくれそうなくらい、
僕の近くにあった。
 冷たく痛みすら感じる様な風も、その月の奇妙な冷たさを手伝うようで
好もしい。
 ただ、月だけを眺めて暮らせる様な職はないものか、などと埒もない事を
考えたりもするが、それはあくまでも歩行の為に体を動かす為に、思考を
眠らせないようにするだけの自動運転のような無為だ。ただ、僕の目は
月だけを追っている。

 それだけ眺めているせいだろうか。ゲシュタルト崩壊でも起こしたかのように、
月の形が変わって来たように見えてきた。動かない筈のものでも、ずっとひたすらに
見つめ続けていれば、ふと身じろぎでもしたかのような瞬間を錯覚するようなもの
だろう、と僕は軽く考えていると。

 月がぷるぷると振動を始めた。その体内にある異物を押し出すように、
と云ったら情緒がないので、「何かを生み出そうとするかのように」と
僕が捻り出した喩えに満足感を覚えていると。

僕から見て七時の角度の位置にあたる部分が、ふるふるふるふると
膨らんで行き。

遂に、「ふるん」ともう一個の月を生み出した。

なんと、本当に生まれてしまったのだった。僕は、そういう事もあるか、と
自分にはどうする事も出来ない事象を、相変わらず眺め続けていた。
二つに増えた月は、それぞれがそれぞれの光を反射し合い、更に煌煌と
明るい。それでも、その冷たさが変わらない事に僕は満足を覚えていた。
まるで二枚合わせた鏡が、決して目で追う事の出来ない光を交互に投げ合うように、
僕の見つめる空は、怜悧な光で満たされていた。

 それからは、何も変わらなかった。
 ただ、月が二つに増えただけ。僕は、何事もない世界にただ月がある事に
深く充足していた。もし、ただひとつでも変わった事を挙げろ、と云われたら
矢張りその美しさが二乗になった、という事であろうか。
 ごくたまに、買い物に行ったパン屋などで、香ばしい焼きたてパンと
挽きたてのコーヒーの香りに包まれた幸福な時間に、そのような瞬間を
提供してくれた店主とふたつの月の話をしたい、と思う時がないでも
なかったが、結局僕は誰とも「月が二つになった事」を共有しようとは
しなかった。言葉に出してしまう事の陳腐さを、パンとコーヒーの香りが
教えてくれたのだろう。

 二つの月は、お互いを映し出しているかのように左右対称に満ち、欠ける。
三日月の美しさと上弦の月の美しさが、僕の中では拮抗していたが、
月は月であるだけで美しい。見えない新月の時ですら、僕はその見えぬ月を
二つ思い描いて幸福な気持ちになる。満月の夜などになると、僕はひと晩中でも
家の小さな庭とも云えぬ庭に置いてある縁台に座り、飽かず見つめた。
ふるふるとした冷たい月は、僕には何物にも代え難いごちそうだったのだ。

 そんな僕に付き合う奇矯な存在が、庭にはたまに現れる。何処が住処なのかも
分からない、小さな猫だった。いつも、一声も鳴かず、ただずっと僕の家の庭に
現れたら座っている。別に痩せている訳でも病気にでも掛かっている訳でもなく、
毛並みも綺麗な銀色であった為、近所に飼われている猫なのだろう、くらいに
考えていたが、あまり静かに座っているものだから、つい夕食の残りの魚などを
塩抜きをしてあげたりしていた。
 すると、矢張り静かに食べる。別に擦り寄ってくるでないし、催促してくる
訳でもなく、ただ、座っている。ただひとつ、僕の琴線に触れたのはその猫が
やった餌を食べ終えた時、僕らの頭上にある月に食事の終了を報告するように
それを見やるのだ。正確に、三秒。
 その、何と云う事もない間が、僕は好きだった。猫は餌を飼い主がやっても
おもねったりする事は殆どないだろうし、ましてや僕は飼い主ではない。
 ただ、月を見る。そんな関係だった。
 猫が空を見やる瞬間、緑の光彩にはその折の月齢の月が映る。
 二つの瞳が、二つの月を映し出し、都合四つ。
 僕は、単純にその瞬間が好きなのかも知れない。

 その日も僕の庭には二つの月と二つの瞳を持つ猫がやってきた。
 暦が春を告げようが、相変わらず底冷えのする冬の夜だった。
 僕は、猫の為に用意しておいてある餌をストッカから取り出すべく、
座っていた縁台から立ち上がり、しばし家の中へ入った。
 戻ってみると、珍しい事に猫が縁台に座っている。先ほどまで、
僕が座っていた場所の、すぐ隣りだった。そして、先ほどの僕と
同じように、月をまっすぐに見つめていた。僕よりも若干姿勢は
良かったが。
 僕は、僅かに考え、結果考えた処で何が変わるものでなし、という事で
猫の隣りの元の場所に座ってみた。猫は、逃げようとはしなかった。
一心に月を見つめている。僕には、その猫の気持ちが強く強く、理解出来た。
 今日も、二つの月は空気を凍らせるような玲瓏とした光を放っている。
 僕も、猫に倣いその妙なる球体を見つめていたが、手に持った干し魚に
気がついた。例によって塩抜きをしてある猫仕様のそれは、月見の宴には
あまり似合わないように僕には思えた。
 小さく裂いて、惚れ惚れする様な集中力で月を見つめる猫の口元に
一片を差し出す。ぬるり、とその小片は猫の口に吸い込まれた。
片時も視線は逸らせない。僕は、また一片、また一片と猫の口元に
裂いた魚を持って行く。それらは全て、音もなく猫の口腔に消えていく。
 僕はふと、そういえば何時もの食事の終了を告げる月への挨拶は
今日はどうなるのだろう、と思う。変わらず猫は月を見つめ続けている。
 手元の魚が無くなった、その時、猫がふるりと僕を見た。月から視線が
初めて逸れ、僕もまた猫を見た。
 初めて、触れてみようか、と僕は思う。そんな事を考える自分に、僕は
驚いた。今まで、撫でようだの抱き上げようだのと考えた事も無かった。
 そもそも毛のある動物が余り僕は好きではない。どのように触ればいいかも
よく知らなかった。それでも、頭の上からいきなり撫でようとしてはいけない、
くらいの知識は持っていたので、猫の顔の下辺りから、ゆっくりと顎に
触れてみる。猫は逃げようとはしない。猫の顎、などという物に触るのは
産まれて初めてだったが、それは、奇妙に冷たかった。月の光のように。
僕は、それからゆっくりと、ではあるが頭を触ってみた。矢張り猫は
逃げる素振りも見せず、矢張りそれは冷たかった。指先に骨の感触が
伝わった。しかし、小さなはっきりとした変化が猫にあった。
それまで、ずっと見開いていた瞳が、まるで三日月のように閉じたのだ。
 僕は、更にはっきりと猫を撫でてみる。猫の感触は、ふるふると
柔らかく、腹などは暖かいが、すぐに触れられる骨の感触が奇妙に冷たい。
 まるで、月のようだった。
 僕が暫く猫を撫でていると、猫は詰まらなそうな声で「によおん」と
鳴いた。僕が初めて聞いた、猫の声だった。
 それから、猫は閉じていた瞳を開く。二つの緑色の月。
 僕は、この猫を飼ってもいい、と思う。

 するり、と猫は僕の手をすり抜けて、庭に降り立った。
 何時もの、猫の居場所。すらりとした銀色の背を見せて、猫は
頭上の月を見上げていた。
 僕も、吊られるようにして、月を見上げる。

 二つあった月は、ひとつだけになっていた。
 

 


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