今日は、今年最後の展覧会を観に行った。
地元の岡崎市美術館の「そこに在るということ」というタイトルの展覧会で、言うなれば収蔵品展だが、工夫した展覧会だったと思う。
1章「聖なるものの表象」
キリスト教では人々を教化する為に、神の姿が描かれたり、日本では仏教の伝来に伴い、仏の姿を借りた神像が 登場したり、平安時代には、喜怒哀楽を露わにした人間的な姿によっても表されるようになった。
展示は、土偶や仮面,僧型神座像や ルオーの版画から始まった。
2章 「遺物・存在の痕跡」
志賀重昴という岡崎では 「郷土の偉人」として知られている人のコレクションから「頭蓋骨」や「名刺」が展示されていたり、土偶型容器(骨壺)や 昭和初期の千人針、日の丸腹巻が展示されたりしていた。
3章 「肖像」
肖像画は、死後に描かれたものであれ、生きているうちに描かれたものであれ、存在についての最も明白な記録であり、証拠なのだと言えます。
日本における肖像の系譜を見れば、それまでの没個性的な描写に代わって、平安末期には「似絵(にせえ)が登場し、対象に肉薄した写生表現が流行します。
その後、写真が登場した。幕末・明治期には、写真を引き延ばしにして描き写す擬写真の肖像画が盛んに制作されました。
シュルレアリストの画貌を持たぬマネキンとしての肖像画の展示。
この中の展示で 驚いたのは、村山槐多の「デスマスク」があったことで、「こんな顔をしていたのか。」と、穏やかな姿を見た。
4章「自画像」
村山槐多展は、何年前の展覧会だったか忘れたが、丁度 この時期の展覧会で、私は「詩の朗読会」も出かけた。最後には、「仲間内の飲み会」みたいな感じになってしまったので、私は 退散したが、興味深い朗読会だった。
村山槐多の絵も展示されていて、それは あの時に展示されていた作品だった。
5章「制作における自己の印」
画家のそのときその場所で行為した息づかいを感じることができる作品や、偶然性や機械的なs制作のルールを導入し、あるいは概念のみを扱うことで、作家の個性や存在そのものが徹底的に消去された作品。
デュシャンの作品や、岡村桂三郎の来迎図は 印象に残った。
今日は、午後2時から 展示説明会があり、学芸員の千葉さんの話を聞いた。
ログインしてコメントを確認・投稿する