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2014年12月14日15:42

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衆議院議員総選挙

 今朝、7時半に投票へ行ってきた。引っ越して投票所が歩いて2分ほどの近所になったし、どうせ早くから起きていたのだから、7時の開場前から表に並んで一番乗りとか、間抜けなことをすればよかった。次はそうしよう。

 投票はかならず行っている。棄権したことはないと思う。ただ、適当にそれっぽい名前を書いて入れているだけで、選挙にリアリティを感じたことは一度もない。何万票のうちの一つがよそへ行ったぐらいでなにが変わるのかとか、そんなナイーブなことを思いはしないけれど、投票箱に放りこんだ票はどこか自分とは関係のないところへ飛んでいくのであって、その結果がひるがえって自分の身に及んでくると考えたこともない。

 そもそも政治にまつわる言説で納得できるものもほとんどない。『ガリア戦記』を読んでいると、紀元前のころからガリア人はあらゆる議題について二派に分かれて争っているらしい。個人的には選択肢がかならず二つしか存在しない状況が想像できないのだけれど、世界に対する根本的な把握のあり方が二項対立をベースにしているなら、政治の基本的な枠組みとして二大政党制が形作られるのもわからないでもない。しかし、英米がそうだからといって日本も二大政党制にと言ったところで、文化的なもろもろの条件も違うわけだから、そこはしっくりこない。

 どうも政治にまつわるあれやこれやは、そうやって関係ないところから引っ張ってきた言葉を無理やり当てはめ、さして検証もしないままどんどん得体の知れない論理を構築して、その上に乗っかって当人同士もよく意味のわかっていないやりとりを応酬しているように見えてならない。

 だいたい党というのも、本来の意味は主義主張を同じする者たちの集まりだろうけれど、一部を除いてほとんどの日本の政党は選挙互助会ではないかと思うのである。そういう文化的風土の上にできたものならそういうものであろうというだけのことで、別にそれをけしからんとはまったく思わないけれど、党と政策を関連づけてどこへ投票するかを決めるという建前として推奨されているスタイルは、現実的でない気がしている。

 どうにもこうにも生活と政治が乖離してしまっていて、それを埋めるパーツが見つからないのである。それについて誰か頭のいい人が考えてくれて、こうやって筋道がつけるとわかりやすくなるよと教えてくれればありがたいのだけれど、それらしきものも見当たらない。政治ジャーナリズムの仕事のような気がするけれど、これがまた永田町のこまごまとしたゴシップをとうとうと垂れ流してくれるだけで、それは政局の話ではあるかもしれないけれど、いずれにせよ身内で話し合って解決してくれればいい問題であって、別に政治の事案でもないしどうでもいいんだけどなあということしか取り上げてくれないのだった。

 それやこれや考えながら少し苦々しく感じるのは、結局のところ自分は政治を賤業だと思っているのかもしれないということである。供出されたものの配分をめぐり、鵜の目鷹の目で少しでも取り分を多くしようと立ち回るようなさもしい連中と一緒にされるのはかなわないと、心のどこかで蔑みつつ忌み嫌っているのでないかということなのである。そうだとすると、それはあまりいいことではないのだけれど、それをどうにかしようという気にもなれないのだった。

 ここまでの流れと関連があるのかあまり自信はないけれど、最後に高坂正堯の『文明が衰亡するとき』から、福祉国家について論じられた部分を引用しておく。国家の提供する福祉が国民の信頼を高めるのではなく、逆に不信を増大させていくメカニズムが平易かつ明快に説明されている。
 そしてここでは触れられてはいないけれど、手厚い福祉は自分の知らないところで誰かが不当な安逸を貪っているせいで浪費されているのではないかという疑念も生じさせる。その猜疑心も人間精神の一側面であって、そこから目を逸らしてさまざまなことを論じても危ういことにしかならないのは、また確かなことではある。


 しかも、増大した仕事の性質が問題である。日本の政治家を見ても判ることだが、現在の政治家は陳情など選挙民からの種々の要求に対応するのに忙しい。それは福祉国家の政治の特徴である。思い切って言うならば、福祉国家の政治はモノ取り競争になる。ダニエル・ベルによれば、福祉国家は、経済の「公的家計」の大きさを特徴とする。「公的家計」とは「さまざまな私的欲求に奉仕しようとする市場とは違って、共通のニーズを満たし、個人の力では入手できない財やサービス−たとえば防衛力、道路、鉄道など−−を提供するもの」であり、それはつねに存在して来たが、政府が景気変動の不確実性を減らす経済誘導を始めたのを皮切りに、社会保障、技術開発、住宅・環境政策や所得補助といった福祉政策など、次々に任務を引き受けるようになったため、飛躍的に増大した。
 こうした政府活動の拡大は、ちょっと考えると判るように、量的なものにとどまらず、質的なものでもある。すなわち、かつて「公的家計」は共通のニーズをあつかうものだったが、新しく増えた仕事は、社会保障や所得補助など、私的なニーズを満たすものである。国民は市場で手に入れていたものの多くを、「公的家計」から得るようになった。たとえば、自分のカネで医者にかかる代りに、「健康保険」で医療サービスを受けることができるようになった。それによって人々は市場経済の過酷さに苦しむことは少なくなったが、「公的家計」の増大にも問題はある。なぜなら、市場においては、人々の欲求はその人の財力によって抑制されており、したがって「決定とその影響に対する責任は分散されている」。しかし、「公的家計」から財やサービスを得る場合、その欲求を抑制するものは各個人については存在せず、責任は政府に集中されている。それ故簡単に言えば、声の大きいものが、「公的家計」から多くのものを取ることができる。つまり、モノ取り競争になる。
 こうした状況は、二つの意味で政治の指導力を低下させる。まず、今や「公的家計」を通じて満たされるようになった私的な欲求は、多種多様なものであるから、政治は細々としたものを数多く扱うということになる。それは当然、権力の分散を招く。先に述べたように、政治的指導者は忙しすぎて指導力を発揮できない上に、扱う問題の性質上、中央よりも窓口が力を持つために、指導力が低下するのである。
 しかも、「公的家計」の増大は、政府の行動を小さくする。というのは、そこでは政府のサービスを求める要求が強まるから、結局は増税が必要となる。しかし、選挙民は増税を認めようとしない。こうして、政府はまったくの窮地におちいることになる。サービスを求める声に応じなければ不人気になるが、しかし、それに応じて政府支出が増大し、それを捻出するため増税を提案しても容れられない。それどころか、サービスの管理のための費用、すなわち官僚性の肥大に人々は腹を立てる。したがって、福祉政策の充実と減税とが同時に要求されることになる。少なくとも増税は強い反対を受ける。しかし、福祉の充実と減税との二つの要求を満たすことは論理的に不可能である。そこで政府はこのジレンマをなしくずしに解決するため、慢性的なインフレ策をとらざるをえないことになるが、それもまた不人気の原因となる。政府のとりうる政策の幅はまことに小さい。
 こうして、福祉国家は政治にかなり負荷をかけるものと言えよう。しかも、福祉国家は人々に満足感を与えはしない。先にあげた調査において、政府が国民に対してより多くのサービスをするようになって来たのに、政府に対する国民の評価は低下して来ていることは、きわめて重要である。信頼感の低下の原因はさまざまであろうが、政府によるサービスの増大が、信頼感の低下を防止するものではなかったことは間違いない。それは多分、ごく初めは別として、政府によるサービスを人々が当然のこととみなしてしまうところがあるからであろう。国民すべてが一様に受ける恩恵を有難がる人がないのは、人間心理から見て当然であるし、恵まれない立場にあるから恩恵を受ける人は、恩恵を有難がるよりも恵まれない立場にあることを怨む傾向がある。それに、政府は具体的にサービスを行う機関として秀れたものではない。「お役所仕事」という言葉に示されるように、政府の仕事はおそく、親切でないというイメージがあるが、それは当っているところがないわけではない。そして、それは規則を重視することから不可避の点があるので、政府機関で働く人々が怠け者だということが主要な原因ではないのである。だがいずれにしても、人々は政府のサービスの質の悪さを問題にする。
 以上のことをまとめるなら、福祉国家の政治状況は次のような可能性を持つと言えるだろう。一方には、国民の私的ニーズを満たすための種々雑多な仕事に追われ、指導力を発揮できない疲れた政府がある。他方には、一応生活は安定しているがくすぶる不満を持つ国民がある。「ガバナビリティの危機」と言われる現象は、そうした危険性が現れ始めたことを示すものと考えられる。

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