2日ほど前かな。
テレビで『認知症』の小特集をしていた。
最近よく見かけるように思う。
そのときは、ダウンタウンとか・・他は忘れたけど(笑)、『認知症』のことなんて普段は気にしてなくて笑い飛ばしてそうなメンバーだったのに、全員すごく熱心に話を聞いていた。
「興味はあるけど、怖いんだろうな」って思った。
「でも、完全な予防策ってのはまだなくて、縮むときゃ縮むよ?」とイジワル。
その中で、認知症になってしまったお母さんを娘さんがビデオに記録し続けていて「なんか様子がおかしいぞ」ってところから「病院に行って診察してもらいました」「デイサービスに行くようになりました」「改善しました」という感じのところまでを記録していた。
で。
病院へ行って診察してもらった時にMRI撮ってはったんですが・・・・イヤ、それ・・脳みそいっぱいあるやん・・・って(笑)。
ハハの脳みそ、もっと小さかったもん。
あんなに少し萎縮しただけで、影響がでるものなんだ・・と、結構ショックでした。
その人の脳は頭の外側から5ミリくらい黒い輪っかが入ってるくらい。
ハハの脳は中心部から半径2/3くらい? 外側の1/3は黒かったもん。
だから、残ってる脳の大きさだけで何かを決め付けることはできないんだと思う。
テレビに出ていたお母さんももともと社交的な人だったらしく、デイサービスに行くようになって、かなり改善したようです。
不思議。
人間の頭って本当に不思議。すごいよ。
それでも、この手のテレビを見ていて思うのは
「オバーチャンは30年前に『アルツハイマー』って診断されてたのに、
その頃からこの病気はあったのに、30年たっても何もわかってない。
何種類か『相性がよければ合うかもしれない』というお薬ができて、
それだって『治す』薬ではなくて『進行を遅らせる』ことしか出来ない。
『何が原因で、どうしたら予防できるか』ということも『絶対』ってもの
はなくて・・・結局、何もわかってないねんなぁ」
ってことだ。
それでも『認知症』と診断される人はどんどん増えていくし、病気になってしまった家族に、介護で振り回される家族もどんどん増える。
『アルツハイマー型認知症』の介護って『子育て』に似てると以前書いたけど、その反面『介護は戦いだ』ともいえる。
戦う相手は患者さんじゃなくて『自分』だ。(なんかカッチョイイ言い方だけど)
この春、介護をしていたお母さんを見送ったお友達が言ってたことだけど
「忘れたものは『無くなったもの』として追わない。
覚えてることをいろいろ組み合わせて運用していかないと仕方ない」
っていうのは、常々ワタシも思っていたことだ。
* * * * *
ワタシは父祖母で「人間って、ここまでいっちゃうんや・・・」と思った。
お母さんを見送ったお友達は「この次に認知症患者にあったら、もう少し上手に接することができると思うんだけど・・」と言っていた。
そうなの。
1回、介護したらなんとなくコツがわかってくる。
でも「介護したら」ってことはもう過去形で、相手は死んじゃってるから、応用できることは少ない。
それでも、多分ほとんどの人が1回経験したら「なんとなくわかる」ことなのだ。
・・その「最初の1回」が「地獄」なんだけど。
ワタシは、こういう効率の悪いことが大嫌いである。
多くの人が同じような経験をすることが明白なら、「知ってたら得なこと」をデータベースにしておいといたらいいではないか。「情報共有」である。
「唯一これ」「こうしたら大丈夫」なんてものは無い。
なぜなら、患者はみんなそれぞれ何十年もの自分の歴史をもった『一人の人間』だからだ。
それを尊重しながら、接していかないとアカンのだと思うよ。
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