クーちゃんは超高齢犬になって、視覚嗅覚聴覚の機能ががっつり落ちた。狡猾なのは、どの感覚も「完全になくなった」というわけではなさそうなのに、どの程度見たり聞いたりできるのかが、こちらにはわからないことである。また今のクーちゃんが興味を持つのは
身近で何人かアルツハイマー型の認知症を見た。認知症という言葉で世間の大半の人が思い描くのは、何度も同じ話を繰り返したり、人の顔や名前を忘れたり・・・だと思うけど。。。。若い頃、おしゃべりでいつも話の中心にいた人は、認知症になってもよくしゃべ
今、「再び」クーちゃんが面白い(笑)。クーちゃんの「クー」は「食い助」のクーだ。オネーチャンがこっそり下で昨日の残りのおはぎを食べようとしていたら「たっとん、たっとん」とゆっくりした足音とともに階段を降りてくる。滑り落ちることもなく。その後
夜の散歩の後、私の後ろから階段を上っていたクーちゃんが、10段ほど落ちた。祖母のときもそうだったけど、年を取ると階段から落ちるときに「落ちないように無理に力を入れない」せいか、これまでのところ怪我はない。「たたたたたん!」というおとがしたので
言うまでもなく、犬と私が交わしているやり取りは私の空想であるが、後期高齢犬となったクーちゃんはキャラクターが変わった。昔介護をしていた父祖母の話し方がドンピシャでハマるようになった(笑)。散歩に出てるとき、少しリードを強く引くとヘナヘナと
母がデイサービスに出かける朝は、家族全員が一階に降りてきてお見送りをする。少し前まで、先の角までモンが車を追いかけて行ってたのだが、路地の反対側にあるマンションのお兄さんから「うるさい」と苦情が出たので走って追いかけるのはなくなってしまった
なぜこの国は「可視化できないもの」にお金を払うのを嫌がるのか。血の滲む思いで可視化させた「結果」だけをはした金で恩着せがましく買い取っていき、変に手を加えて台無しにする。サービスは0円ではない。情報も0円ではない。私の創意工夫は私だからでき
自分たちの老後のことを考えて計画する。もちろん話し合った末に二世帯同居があるのは自由。介護って考えてるよりもずっとお金がかかるねん。人の手もたくさんあればあるほどいい。人ひとりの手が介護でうまってしまう、と思ってもいい。親も子も交えて考えて
なんでもできる人はいないしなんにもできない人もいない得意な所を持ち寄ってみんなで協力したら大概のことは乗り越えられる誰かひとりだけがえらいんじゃなくてみんなえらいんだよえらい順番はないんだよ
お巡りさんの訪問を受けて「犬の鳴き声がうるさいと苦情が入った」と言われ『なにおぅ』と瞬爆しそうになった。「虐待の通報があった」と言われた母親はこんな気持ちなのかしら…と思った。苦情よの件は、物干で風に当たるのが好きなクーちゃんが時折裏
マウントをとる子供が小さい子をいじめるDVパワハラモラハラ痴漢行為全部根っこは「弱いものいじめ」な気がする。自分より弱いものをいじめることはいけないことだ、恥ずかしいことだと、思ってたらそんなこと…するかな?、やっぱり…。
私は「認定調査」が大嫌いだ。毎日気持ちもお金もなんとかやりくりして暮らしているのに「ウチの母はこんなところがおかしい」「私はこんなに困っている」ということを棚卸ししないといけないから。自分がどれだけしんどい想いをしたか思い出す。母がどれだけ
私は今は日本の経済 よりも日々の暮らし と生きていくこと を心配しないでいけるように経済 よりも 商い がうまくまわるようにしてほしい一生懸命やってその結果認められるのはいいでも1番を目指して無理して体壊して 人を壊して頑張るなんてばかげて