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2014年11月24日09:38

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時があり

6歳未満臓器提供へ 両親の言葉
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=3154838

わたしは自分自身、ドナーとならないことを決めている。あくまで個人的な価値観として、死は時が来たら受け入れるべきものと決めているから。
他人の臓器をもらえば生きられる、つまりそうでなければ生きられないとなったら、それが命の限りと自分自身、決めているから。

わたしはあらゆる宗教に対して懐疑的だけれど、旧約聖書のこの一説は何となくいつも頭にある。

「あめ
天が下のすべての事には季節があり すべてのわざには時がある

生まるるに時があり 死ぬるに時があり 植えるに時があり 植えたものを抜くに時があり……

(中略)

愛するに時があり 憎むに時があり 戦うに時があり 和らぐに時がある」

訪れるものが訪れたら「時が来た」と受け入れる命でありたいと思う。
父は、肺炎が進んで嚥下障害が起きて口からものが食べられなくなり、胃瘻をつないで胃から直接養分を流し込めば生きられると聞いたとき
「死んでもいやだ。それは人間のすることじゃない、時期が来たんだからほっといてくれ」と抵抗した。
けれど、美人女医さんの強引な説得に負けて、「しないと叱られるんか。仕方ない」と受け入れた。
それから枯れ木のようにやせ細って死を迎えるまで、病床で天井を見て過ごした。
「この世の地獄だ」と言いながら。

呼吸が止まっても強制挿管で生きられる。食べられなくても胃から流し込めば生きられる。人の臓器を受け入れれば生きられる。
医学が果てしなく進むにつれて、「死ぬに時がある」のその「時」をそう簡単に受け入れなくても済むようになった。けれど、どこまでも生きたいと願い、結果として人の遺体や死を待つという行為は、陰で臓器を提供できる個体を買う、つまり貧しい国での『人買い』『子どもの命ごとの臓器買い』にまで結びついている。

人の幸せを願い、犠牲を恐れない行為は美しい。だからこの両親の決心も行為も美しい。
また臓器提供を受ける側の、愛するものを守りたい、という心を否定することは誰にもできない。

でもその向こうに広がる見えない闇が、逆に、人の何たるかを教えてくれる気がする。



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