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2014年11月20日02:38

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【介護】 またこんな記事・・・。

お昼休みにパンをかじりながら、デジタル新聞を読んでいたワタシは、この記事を読んで固まってしまった。

頭の中には「怖い」という言葉がいくつもいくつもぐるぐる回っていた。
被告が「怖い」のではない。

自分が同じところに立つことが、あるかもしれない・・・という意味で怖かった。

その次に、ただただ「哀しく」なった。
記事を読み進むうちに、泣きそうになった。
ナイショだが、帰宅してから、思い出すたびにちょっとだけ泣いた。

なんてやさしい「息子とお母さん」だったのだろう。

意識していなかったにせよ、自分の手で死に至らしめた母親のことを、公判の場所で「とてもやさしい母でした」という。
愛情をいっぱい注いで育ててもらって、彼もそのことをちゃんと感じ取っていないと、こんな言葉は出てこない。

慣れない家事をしながら(それはワタシも同じだがっ)、「おかあさん」を気遣い、お母さんの希望をききながら、できるだけそれに添うように、毎日暮らしていたのだ。

検察や裁判官の言い草がカンに触る。
「テメーラ、介護したことあるのか! デカイ顔してエラソーなこと抜かしやがって!」と思う。

介護生活は「いつ終わりがくるか」が見えないから、ときに絶望してしまう。
「この生活はいつ終わるんだろう?」
「自分はいつになったら、自由な、『自分』の生活が出来るんだろう?」って思う。

こっちの言うことを聞いてくれなかったり、後始末に手間のかかることをしでかしたり、だだをこねたりするところは、小さな子供に似ている。

子供はひとつひとつ覚えて成長していくし、「保育園に通いだすまで」「小学校に入るまで」という「期限」が見える。

でも、お年寄りの介護はトラブルの内容は同じようなことでも、何度も何度も同じことを繰り返す。そしてどんどん症状は悪くなっていく。
その生活が終わるのは、「被介護者が死ぬ時」だ。
そんなの、誰にも予測できない。
これは、本当にしんどい。経験してない人が想像してる以上にしんどい。

ワタシは今のところ、幸いそこまで追い詰められた生活はしていない。
でもそれは、あくまでも「今のハハの状態で」という条件がつくのだ。
介護生活をしている人たちは多分そうだと思うけど「先のことなんて考えてない」。
なぜって「被介護者がどんな変わり方をするか」なんて、誰にも分からないからだ。

事故(暴力をふるうのはいけないけれど、ワタシはこれは事故だと思う)を起こした被告を責め立てるよりも、「そうならないようにするにはどうしたらいいのか?」を考えるように、国会議事堂のオッサン共に怒鳴り込みに行ってこい。
アンタらがいえないなら、ワタシがいってやる。

今は世界中で問題になっている「認知症」。
G8かなんかで「世界で力をあわせて対策を練ろう」みたいなことを言ってるけど、それは「認知症の原因をさぐり、治す方法を探し出そう」ということではない。
「できるだけ軽い状態を長く維持して、一般社会と共存できるようにするにはどうしたらいいか?」と考えることだ。(・・・と思ってる国は思ってるハズ)

でも、賭けてもいい。
間違いなく「日本のオッサンども」は、前者だと思っていて,また無駄に税金を使うだけ使って成果はなし、で期限を迎えるだろう。

だってそうでしょう?
30年前にウ
チの父祖母は「アルツハイマー」と診断されてたんだから。
30年前から「アルツハイマーはあった」んだよ。

でも、30年経っても「身体に合えば進行を緩やかにする(止める、ではない)薬」が数種類できて、「認知症にもいくつか種類があって症状も違う」ってことがわかった・・くらいしか進んでないのだ。(ワタシが知らないだけかなぁ)
10年もない間に「画期的に効果のある治療方法」など見つけられるものか。


「介護」について一生「他人事」で済ませられる幸運な人などいない。
「親」から生まれなかった人なんていないでしょう?
その人に「親」がいなくても、結婚したら配偶者の「親」がついてくる。
「配偶者」だって、その中に入るんだよ。

「親の兄弟」や「祖父母」の世話をしている人や、一人で複数の患者さんを介護してる人だって、今現在、実際に存在するのだ。

「経済成長」について、構ってるヒマなんぞないと思うぞ。
「ニホンの経済成長」より「我家の明日の財布」の方が大事である。

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■母への思いが変わった瞬間(連載:きょうも傍聴席にいます)
 http://www.asahi.com/articles/ASGCB43DHGCBUTIL00P.html
 朝日新聞デジタル 2014年11月18日16時19分

やせ細っていく、優しかった母。息子は1人で介護を続けた。体力がなくなってきたからか、母は入浴や食事を嫌がり始めた。2人で孤立するなか、息子の心配は、いつしかいら立ちに変わり、そして、暴力へとつながっていった。

東京地裁の715号法廷。10月28日、中野雅昭被告(39)は初公判に、緑色のネクタイをしめ、スーツ姿で現れた。母親に暴力を振るい、死なせたとして傷害致死罪に問われた。裁判員らの視線が集まるなか、緊張した面持ちを見せた。

検察側の冒頭陳述などから、事件をたどる。

中野被告は両親とともに、東京都中野区のマンションで暮らしていた。高校卒業後、スーパーで11年間勤務。だが、上司のパワハラを理由に辞職した。その後、別のスーパーで働いたが、5年前からは無職だった。

父親は15年前に他界。以来、母のれい子さん(当時64)と、2人で生活してきた。定職につかない息子を、母が責めることはなかった。「自分のやりたいことが見つかるまで、待っていいよ」。そう言って、見守ってくれていた。

一方で、れい子さんは骨粗鬆症(こつそしょうしょう)を発症。2011年から入退院を繰り返し、次第にやせ細っていった。

ほぼ毎日の通院には、中野被告が付き添った。食事は中野被告が用意したが、レトルト食品やスーパーの総菜が多かったという。

事件の1年前。れい子さんは雪で滑って、大腿(だいたい)骨を骨折してしまった。入浴やトイレも、1人では難しくなった。時折、尿や便を漏らすこともあったが、中野被告が下着などを手洗いした。

いつも寄り添う2人の姿を、マンションの住民がたびたび見かけている。

 被告人質問。
 弁護人「1人で介護をするのは、負担だったのでは」
 被告「正直、負担でした。でも、仕方のないことだと思っていました」
小さな声で、こうも言った。
 被告「とても優しい母でした」

 なぜ、暴力が始まったのか。きっかけは、事件のほぼ半月前だ。

 被告「1月13日です。おかゆを用意したが、母が食べず、顔を、平手打ちしてしまいました」
 弁護人「なぜ暴力を」
 被告「朝の『打ち合わせ』で、食べると言っていた。約束を守らなかったので、カッとなってしまいました」

人付き合いが苦手だった2人は、毎朝、れい子さんが集めていたキューピーの人形をそれぞれが持って、人形劇のように「打ち合わせ」をしていた。

ご飯を食べるか、散歩に行くか、お風呂に入るか。

心配性できちょうめんだった中野被告は、打ち合わせで決まったことを守ろうとした。だが、れい子さんは次第に、打ち合わせに反して、「食べない」「しんどいから風呂には入らない」と言うようになった。

 被告「日に日に弱っていく母を見て、疲れていました」

「母のため」を思い、食事や入浴の準備をした。だが、応じてもらえない。「打ち合わせ」で決めたことも守ってもらえず、ストレスがたまっていった――。中野被告はそう説明した。

3〜4日に一度、れい子さんに暴力を振るうようになった。

そして、1月29日。

中野被告は、れい子さんのためにレトルト食品のおかゆをあたためた。だが、れい子さんは「食べない」。カッとなって、顔をたたいた。

夜、風呂場に連れて行ったが、「しんどいからやめとく」。

布団が敷いてあった台所まで戻って、寝かせた。だが、怒りは収まらなかった。背中を強く蹴った。何回蹴ったか、覚えていない。

れい子さんは、「うぅ」と小さなうめき声を上げた。中野被告は心配になり、「ごめんね、大丈夫?」と聞いた。「大丈夫」。小さな声が返ってきたという。

自分を鎮めるため、中野被告は自室にこもった。10分ほど経ったころか。心配になり、様子を見に行った。れい子さんは薄目を開けたまま、動かなかった。慌てて119番通報したが、病院で死亡が確認された。

 検察官「暴力を振るったとき、申し訳ない、とは思わなかったのか」
 被告「そのときは、怒りの方が勝ってしまいました」

検察官の口調が、さらに強くなった。

 検察官「暴力を振るったのは、あなたの感情によるもの。やむにやまれず、という状況ではない」
 被告「……、感情任せの、短絡的な行動でした」

れい子さんは、生活の一部で支援が必要な「要支援1」に認定されていた。だが、デイサービスなどは利用していなかった。

 検察官「なぜ、利用しなかったのか」
 被告「母とも相談したのですが、人とコミュニケーションをとることが苦手で。人を家に入れることも、極端に嫌がった」

裁判員も質問した。

 裁判員「自分1人で介護を続けることは難しい、と思ったことは?」

 被告「ありました。でも、自分でやれることはやろうと思いました」

検察側は論告で、「やせ細った母親への暴力がいかに危険か、被告は認識していた」とし、懲役5年を求刑した。

弁護側は、執行猶予付きの判決を求めた。「現代の社会を反映した事件で、暴力行為は偶発的なもの。深く反省している」

最終意見陳述で、中野被告は用意してきた文書を読み上げた。

 被告「母に対して本当に申し訳ない。人として、やってはいけないことをしてしまった。今更ですが、親孝行できなかったのが悔やまれます」

判決は10月31日に言い渡された。懲役3年の実刑判決だった。

最後に、裁判長が「裁判員、裁判官からあなたに伝えたいことがあります」と切り出した。

裁判長「被告はきまじめで優しく、きちんとした勤務もしてきたが、社会性の乏しさから不幸な事件につながった。お母さんの死という重大な結果について、さらに反省を深めてほしい。お母さんも、1人できちんと社会生活を送ることを望んでいると思います」

中野被告は、うなだれたまま聴き入っていた。(石川瀬里)

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