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2014年11月12日22:27

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イタリア旅行その7 フィレンツェの光と罠

早朝の室内です。

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遠慮なくドゥオーモががらんがらんと鳴らす鐘で大変ヘルシーな時間に叩き起こされ
起こされるとまずパソコンを覗かずにはいられないのは悪癖と言えましょう。
(撮られてるの知らなかった)

フィレンツェ二日目はウフィツィ美術館へ。
当日券を買うには並んで3時間以上かかると聞いていたので、日本から買っていきました。
でも、わざわざ美術品を見に行かなくても、街そのものがわたしには美術品です。
あちこちそぞろ歩くのが実はわたしには一番楽しい。
何しろ芸術の街なので美術学校やアトリエも多く、頭上を見あげれば壁を人形が歩いていたり綱渡りしていたり……

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何気ない裏路地のお店ひとつとっても趣深く、色彩が美しい。

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裏路地のにゃんこも趣があります。

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アルノ川の向こうに見えるのがウフィツィ美術館です。

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左奥にかかっているのは、ヴェッキオ橋。
ヴェッキオはイタリア語で「古い」という意味で、名前の通りフィレンツェ最古の橋です。この橋からは、中央部分以外、川を見渡すことはできません。橋の両脇に金細工の店がずらりと並んでいるからです。
記念にイヤリングでも買おうかと、間口の狭い店を見て回ったんだけど
そもそも『イヤリング』なんてものを買おうってのがほぼ不可能なのだと知るのにそう時間はかからなかった!
もう、耳飾りと言えば世の中には「ピアス」しか存在していないらしい。イヤリングはありますか?と尋ねると、クリップ?と聞いてくる。ああ、はさむもの、という呼び方なのね。
そして、ちょっと待って、と店の奥からがさごそ出してきても、古―いデザインのが3,4個しかありません。
でもにこやかに接客してくれるし時間撮らせて申し訳ないしで、金細工の扇の形をしたものを一個買っちゃった……

こちらにきてわかったことだけど、どうも、日本人はいろんな意味で「静かすぎる」らしい。
お土産店に入るとき、無言。見るとき、無言。出て行くとき、無言。お行儀はいいんだけど、店から見ると「何を考えてるのかわからない」らしい。ダンナはイタリアに行く前、懸命に日常会話絵を覚え、こちらにきてからは何かにつけてイタリア語で挨拶するようにしていました。
こんにちは、ちょっとみせてもらっていいですか。触ってもいいですか。ありがとう、アルベデルチ。(またいつか、みたいな意味)笑顔を見せて挨拶するだけで、お店のかたの態度もがらりと変わります。片言でも現地語での挨拶は大事!と今回、つくづく思いました。

さて、ウフィツィ美術館。
手前のシニョーリア広場脇には白バイ警官が集まって警備にあたっていましたが、美男美女揃いで、制服もバイクもイタリア風におしゃれでカッコイイんだな。

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この警官たちの正面には、ランツィの回廊と言われる建造物があります。画家であり建築家であったオルカーニャにより1350年に建設が開始されたもので、当初は市の公式行事や護衛兵の兵舎として利用され、そののち彫刻ギャラリーとして利用されています。
かなり価値の高そうな大理石の彫刻が台の上に無造作に並んでいて、回廊から広場への階段には人々が彫刻に背を向けて思い思いに座り込んでます。不心得者がいたずら書きしたりよじ登ったりしなきゃいいんだけど、と思うぐらい、繊細な作品がぽんぽん置いてありました。
有名なところでは、チェッリーニの「メドゥーサの首を掲げるペルセウス」。作者はもともと金細工師で、これだけブロンズ像。ほかの彫刻は大理石でした。切り取られた首と頭のない胴体から蛇のようなものがうねうね出ているのがなんとも。
二人以上の人間が絡み合っている動きのある彫刻が多く、それぞれの背後に悲惨なストーリーをうかがわせるのですが不勉強なわたしにはわかりません。神話を軸にした略奪誘拐かどわかし系のストーリーとみられ、大体半裸の男が半裸あるいは全裸の女性をさらっていく悲劇的な作品が多い。キリスト中心の宗教画を抜きにすれば、ルネサンスの名画には、こういう悲劇的な作品が多いんですよね。動きがあってドラマチックで、実のところなんかいかがわしい。

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ピオ・フェンディの「ポリュクセネーの凌辱」
ギリシャ神話に出て来るアキレウスの息子が、亡き父アキレウスの亡霊に銘じられて、生前恋していた美女ポリュクセネ―を母親の手から奪い去っていくところ。
何体もの体とまとわりつく服の流れが何とも美しい。
巨大な大理石の岩からこうしたものを削り出していく技術と感性には圧倒されます。
でもね、結局人って、美しい悲劇が好きなんだなと思いますね。特にアーティストは、美女が痛ましく襲われたり殺されたりするシチュエーションがとても好きなようです。

さて、前売り券蟻の列に並んで、ウフィツィ美術館内に入ります。
まず、建物そのものがいい。

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そして、見上げれば天井も。

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お目当ての作品はいくつかありました。
聖セバスチャンの殉教。ティツィアーノのビーナス。ボッティチェリのプリマヴェーラ、ヴィーナスの誕生。クラナッハの、アダムとイブ。

実はわたしが最初これらの絵に出会ったのは、物心つくかつかない時、小学校低学年あたりでした。父の書斎には美術書がずらりと並んでいて、暇なときは片っ端からめくっていたんです。
なかでも幼いわたしにとって衝撃だったのが、「ルネサンスの名画たち」シリーズで。
半裸の男が手をくぎで打たれ腹から血を流して十字架に打ち付けられている。あるいはぐったりとしてそこから降ろされている。足元で人々が祈ったり嘆き悲しんでいる。裸の美女が妖艶に横たわっている。半裸の男性が身体を矢で射られてなんだか恍惚としている。裸の女性が貝殻に乗っている。全裸の男女が泣きながら股間を手で隠して歩いている……
もちろんキリスト教もギリシャ神話も知らないうちに見たわけです。これはいったいどういう世界なのか。今の言葉で言えば、「これはあかんやつや」という直感がわたしを貫き、なぜこんないかがわしく怪しくいけないものを、あの厳格な父が子供の手に届くところに並べているのかとずいぶん不思議に思ったものです。
けれどそれらの絵が何と力を込めて描かれ、その色彩のなんと美しいことか。肉体の、なんと生々しいことか。なんと艶めかしいことか。
そして何度かそっとめくっては眺めて恍惚とする自分を恥ずかしいもののように思い、ついに立派なその布製の表紙に、鉛筆で堂々と「バツ印」をつけてしまったのでした。

そしていま、わたしはそのバツ印の入り口に立っているわけです。さあ、レッツゴー。

いまや何の気遅れもおそれもございません。
けれど、目指す絵画に巡り合うために、まず何人も何人もの「知らない」イエスキリストとマリアに出逢い続けなくてはなりませんでした。それも、ツアー客の頭越しに。(ここでもアジア系の団体客が中心)
ウフィツィ美術館の8割は宗教画でできてました。
次から次へと見せられる、受胎告知、神の子イエスの誕生、聖母子像、迫害と受難と犠牲と昇天、マリアの嘆き。
キリストとその母と彼の一生をもう嫌と言うほどいろんなバージョンで見せられて、ああキリスト教は神じゃなくて人の子、イエスキリストを崇める宗教でその上に鎮座ましましているのがマリアなんだとわたしは再認識したのです。聖母教会やマリアと名のつく聖堂はあっても、イエスと名のつく建造物はほとんどないですからね。
フィレンツェのドウォーモのファサードに掲げられているのも、イエスを抱くマリアです。
で、絵画に戻ります。
マリアはおおむね美しく描かれているんだけど、どうも幼児のキリストがよくない。昔の画家たちは子どもをかくのが下手なのか、ただの子どもに見えてはいけないので賢者っぽくしたところなにものかわからなくなっているのか。なにかおっさんくさく、あるいは無気味に無表情で、可愛げがないのです。可愛くかいてはいけないという鉄則でもあるのかと思うぐらい。いや、ボッティチェリあたりはさすがでしたが。

そして大概疲れ果てたあたりで、一番お目当ての「ウルビーノのビーナス」に出逢いました。

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(写真はWEBより)

この絵はさすがに一番人気と言ってよかったんじゃないかな。
こんな美しい絵がトラウマになっている女ってあんまりいないんじゃないかと。
やはりビーナスの肌は光り輝くように美しく、その視線はあまりに妖艶で、ギリシャ神話の住人ではなく、ただ見るものを蠱惑するために横たわっている永遠の美女がそこにいました。赤いバラ、カーテン、遠景で服を探す下女の衣装の赤。ちりばめられた赤と美しく乱れたシーツ、決してただの「美の女神」ではない、血の通ったエロチシズムと背後のストーリーがにおい立っていましたね。しかも彼女はあくまでビーナスです。煩悩をぶちまける対象ではないわけです。

聖セバスチャンの殉教にも出会いました。

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(WEBより)

これもまたなんと罪深い絵でしょう。そしてどうしてこんなに美しいのか。
美とエロチシズムと悲劇を心の奥底で渇望する、人の罪深い欲望を、聖なるものとしてかたちにして満足させる。
誰が否定しようにも、ここには「性」の領域を侵犯した者のみが持つエロティシズムがあふれています。
美と性。神の意志へと至る崇高な道と、最も忌むべき堕落へと人を誘い込む麻薬。
その双方を含んでいるのが、この絵だと、わたしは感じました。
やはりルネサンスの名画はわたしにとってとても「困ったもの」なのです。おそらく当時も、人々の中で鳴らされていた琴線は似たようなものじゃないかと。

聖母子像も聖母マリアも、美しい女性の衣服はたいてい、青と朱色で構成されていて、これは約束事のようでした。

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 (フィリッポ・リッピ 聖母子 WEBより)

そして美女の顔の基本はマリア像にあるように、造形的に端正で整っていて硬質で、でも肉体は放恣的なのです。
惜しみなく裸身を見せるビーナスの肉体は、小ぶりの胸にゆったりと大きなおなか、腕も太ももむっちりで、胸は隠しても下半身は隠さない、そんなおおらかさに満ちていました。
そして男たちの裸身は、どこまでも筋肉質で堂々としていて、生命力にあふれている。
また彫像に見る、この世のものならぬ愛のストーリーは、天使であったり同性同士であったり、現世の軛とは離れた自由なところにあります。

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この絵画や彫刻が生み出されたころ、疫病や戦争のくりかえしで、人々にとっておそらく今よりずっと死が身近にあったでしょう。そんななか、聖書や神話の中の永遠や美にすがることで、視点を遠くに置いたんだろうなと、そんな風に感じました。
けれど、イエスキリストと昇天と奇跡の絵画の繰り返しには、キリスト教に興味のない自分には相当きついもんがありましたね……
ツアーの皆さんも、ガイドの説明も聞かず無駄話していたり明らかにうんざりしていたり、中盤以降は絵を楽しんでいる風な人はほとんど見受けられませんでした。
自由に見てる自分も、最後のほうでいろいろ感覚がマヒしてきて、もう何でもいいから外に出たいなんて思ってましたもん。

なんでも、イタリアを訪れて観光名所を巡る観光客がかかる「スタンダール症候群」という代物があるそうです。
これは1979年にフィレンツェの精神科医師ガジエッラ・マゲリーニが指摘したもので、
「膨大な芸術作品群をできる限り多く見て回ろうとする強迫観念が、観光を楽しむ余裕を奪い、頭痛などの症状を発するもの」だそう。
なるほどね。ウフィツィを出てきた人の大多数が罹患していたとわたしは見ました(笑)
もちろん、わたしも。
その後、近くの小さな店(確かマリオーネといった)で食べた野菜たっぷりのスープとチーズ入りのラザニアがとおっても美味で、なんかふわあっと体の芯から癒される感じでした。
よし、スタンダール症候群、快癒。

んで。
帰宅して疲れて寝てたら寝てる間にダンナが一人お散歩に行き、なんかえらい値段のビジネスバッグを二つも買いくさった。(そのまま日本に送ったらしい)
「お母さんに謝らなきゃいけないことがあるんだけど……」
何その言い方は。コドモかっ!
こちらの革製品店は、店内に工房を持っているところが多く、それは丁寧に美しく仕上げた品が多いのです。そして、ウインドウでうっとりと彼が見ていた品をわたしは知っている。
赤ワインに続いてまた無駄遣いを……
イタリアに来て一番と言えるケンカに発展し、頭にきてテラスでふて寝したら、謎の虫に刺されたらしく、(しかもおっぱいだけ)
翌日の朝見たら胸だけ八か所もさされていて真っ赤でございました。
かゆいわ腹たつわダンナには笑われるわ、日本から持って行った薬を塗りたくったらサロンパスを全身に張ったおばーちゃんみたいな体臭になってしまったのでした。
しくしく。フィレンツェ二日目、負け越し。

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