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2013年12月03日17:40

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言葉狩りと表現の自由

ツイッターでちょっと盛り上がっていた福島香織と宋文洲のやりとり。
http://goo.gl/fsLV3u
明らかに言いがかり的なことを言う宋氏に対し福島女史は毅然と反論をしていた。形勢不利と見るや宋氏は福島女史のハンドルネーム「KAOKAOKAOKAO」に攻撃を始めた。宋氏に言わせると「KAO」あるいは「CAO」は中国のある地方では卑語で「FACK」のような意味だというのだ。中国語を話し日中の情報の架け橋のような仕事をしている福島女史がこんな名前を使うのは悪意に満ちていると言うのだ。福島女史にしてみればそんな方言は知らないし、KAOは香織のカオでニックネームでカオカオと呼ばれていたので付けたハンドルネーム、文句を付けられる謂れはない、とのこと。宋氏に全く分はなく、即座に謝罪に追い込まれたが、それでも自分は正しいという姿勢は崩さない。
もともとこの論争は1年ほど前の番組で共演した時、福島女史が「外交のカードとして戦争という選択も持つべきだ」という発言をしたことを、何故か今になって宋氏が戦争賛成論者の発言だと批判したことに始まる。単にパワーポリティクスの手段としての発言を、戦争賛美として指摘するのは明らかに曲解なのだが、そう思うのは何も宋氏ばかりではなくて、彼の17万のフォロワーの中からも福島女史への批判が加えられる。曰く「戦争は外交の手段の一つではなく、外交の失敗だ。それをカードとして持つことは敗北主義だ。」とのような論旨。つまり「戦争」という言葉を用いる事がもはや戦争を容認している姿勢の表れで、容認と賛同は五十歩百歩。賛同と賛美も遠からじ、というわけだ。これを僕なりに解釈してみれば、戦争というカードは実際には存在するが、それを言葉にするのはタブーだということだ。ゲームをご破産にすることができるジョーカーを手にしたプレーヤーが、それを持っていると宣言するのはそれを使うと脅しているのと同じで、実は対戦者もジョーカーを持っていて、隠していたそれを表に出さなければならない状況になる。その時点でゲームはつまらないものになってしまう。秘するが花、言わぬが花、というわけだ。
だがこれは、実は福島女史への批判にはなっていない。戦争というカードがあることを否定しているわけではないからだ。言うか言わないかの問題。
一方で福島女史の戦争というカードを捨てるべきではないというサジェスチョンも、実は要らぬお世話で、憲法9条があっても戦争のできる体制は整えられているのが現実の国体というものだ。つまり「言うまでもないこと」なのだ。

さて、ここまでは前置きで今回話題にしたいのはタイトルにある通り「言葉狩りと表現の自由」。前置きはそのサンプルとなるものだ。KAOが言葉狩りだというのは明白だろう。だがこれが福島女史が知っての上で付けた名ならそうなるのだろうか。「FACKFACKFACK」というハンドルネームをつけたらそれはまずいのだろうか。その場合言葉狩りでなく正当な要求となるのだろうか。
言葉狩りはたいていそれを受け取る側の論理で組み立てられる。その言葉に傷付く者がいるから使うな、というわけだ。「片手落ち」や「土方」という放送禁止用語もその当事者が気分悪いだろうからと「他人」が慮って使うことに規制をかける。この仕組は非常に危険だ。なぜなら誰もその判断を検証できないからだ。傷ついた証拠なんて誰も立証できないし、しかもそれが他人がする心象についてなのだ。こんなのはどこまでも恣意的に拡大解釈できてしまうだろう。それが目に余るようになると、人々はようやくそれを「言葉狩り」だと騒ぎ出すことになる。だが言葉狩りの萌芽はもっと前にあり、そこを考えなければ対症療法を繰り返すばかりになってしまうだろう。
「天皇機関説」だとか「軍隊は暴力装置である」だとか、「戦争は外交カード」同様事実であるにもかかわらず、そう言っちゃあおしまいよ、とばかりに忌避される言葉がある。これらは行き着く所、言っていることが正しくても、それを聞いて誤解する人がいるかもしれないから言うべきではないと、事実上規制されるのだ。

こんなブログを読んだ。「間髪をいれず」が殺された日http://goo.gl/Ygf3aW この論の面白いところは言葉狩りを発言者の視点から分析していることだ。言葉という生き物のように変化していくものを、正統性という檻に入れることで逆に殺してしまうという事実に着目している。
上記前置きの「言わぬが花」「言うまでもないこと」もまた、発言者の視点からなされる言葉狩りということができる。とりあえず使わないでおこうという気持ちが、その言葉の存在自体を無いものにしてしまう。言葉は発せられなければ存在し得ないものだからだ。なので表現者は多少間違っていようと不適切だろうと、なるべく多くを発言するべきなのだ。表現することが第一。内容は二の次。それが言葉狩りに対向する唯一の手段なのだ。(言わないことで表現する高等技術もあるがそれはさておく)

今や制作もせず何も発表しない身でありながら、僕は常々自分を表現者として規定したいと考えている。表現することを第一義として考えたい。自分が表現しなくとも、とにかく表現者の側で考え、表現の味方でありたいと思っているのだ。これは実はそれほど容易なことではない。表現とは実際は多分に反社会的なことだからだ。アーティストを「素敵」「かっこいい」「尊敬する」なんて言っている人がいたらおめでたいと思ってしまう。真にアーティストといえるような輩は人格破綻者だし反社会的な落伍者だというのが僕の認識だ。アーティストが人格者だと言われるようでは、その人の表現が社会の枠にすっぽり収まったつまらないものでしか無いと証明しているようなものだ。他人を傷つけ押しのけるような暴力性が世界を拡張させる力を持つ。表現とはそういう心をざわつかせる乱暴な力であるはずなのだ。表現者の社会的役割とは開拓者のようなもので、暴威によって自然を征服して行った先にしか沃野は生まれない。その時に自然を大切にだとか上品な振る舞いをと要求するのはナンセンスなばかりか害悪でしか無い。

石破自民党幹事長の発言が物議をかもしている。デモ隊の絶叫作戦はテロと同じだとブロクに書いた事が反発を受けているのだ。僕はこの発言に全く賛同しない。むしろ耳障りな絶叫こそ真のデモだと思う。誰もデモ隊の発する言葉自体を聞いているわけではない。反対の態度を示すのがデモで、反意を世間に示し、対立する人間の心を斯様に乱したのなら、この絶叫は表現として成功しているのだ。更に石破氏は「一般の人に恐怖の念を与えたり、静穏を妨げたりすること」がいけないと、自分の感情ではなく、被害者に憑依して攻撃するという卑怯な戦術を用いている点でも全く同意できない。

だが同時に、テロとのレッテルを付けて罵倒する彼の発言もまた、僕は表現として容認する。その言葉を政府の要職にある立場として不適当だとする糾弾は言論の自由に反する姿勢であり、「テロル」という言葉の言葉狩りだと思う。
なぜならどんな言葉も、言葉として発せられる段階では無罪であると思うからだ。「殺してやる」と脅迫するのも自由だと思う。それを思うことが自由であるように。実際に殺害行為を起こした時に初めて罪に問われるべきなのだ。そもそも「殺してやる」は殺意とは違う。本当の殺意に言葉はない。「殺してやる」は「私の言葉を聞いて」という意味なのだ。その言葉を無視されて初めて殺意が生まれる。つまり「殺してやる」は脅迫ではなく、気をつけてねと警告しているに過ぎない。石破氏も絶叫デモはテロと同じだからと禁止法を制定するよう動き出したら、その時初めて問題にすればいいのであって、これまでの報道とは違うブログのようなパーソナルな発信手段において、どんな過激なことを書こうとそんなこと気にするほうがバカと言うものだろう。ついでに言うなら、そうした言葉狩りをした結果、元の文を訂正してなかったものにする行為こそ、表現に対する検閲であり現代の焚書と言ってもいい反社会的行為なのではないかと思う。

警告や脅しは相手の心の平穏をかき乱すから有罪だというなら、全ての芸術は有罪になってしまうだろう。表現を受け取る側は多種多様で完全に把握することはできない。表現とは発し手と受け手の完全なる和合を目指すものだが、実際にはそこに位相がありコントロールは不可能だ。言葉は誰に届くかわからない。子供に夢を与えようと作った「崖の上のポニョ」が、東日本大震災の被災者にパニック障害を引き起こさせるかも知れない。だからと言って表現者はその危惧のために言葉をつぐむべきだろうか。先に書いたように受け手を第一に考えた時言葉狩りが発生する。言いたいことを後先考えずに発することは無責任だと恐れ、言葉を選び出すとそこで言葉が狩られるのだ。表現者はどこまでも無責任な想像力あふれる幼児であるべきなのだ。その特権の代償としてアウトサイダーとして社会から廃嫡される。それが正しい表現者すなわち芸術家の姿なのだと思う。
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