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2013年10月19日18:20

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生誕100年!植田正治のつくりかた

砂丘にね、不思議なポーズをとる少女たちの姿があるのです。あれ?あちらは、家族でしょうか?あちらには、オシャレな紳士が何やら砂丘でポーズをとって立っている。
ここは、何処だろう?火星かな?あぁ、火星に、紳士淑女が大集合しているよ。あのにゅるんは、火星の大きなミミズのような生き物なんだろうか?それに果敢に挑んでいく淑女。
幻想の世界にも見え、シュルレアリズムにも見えるケド、何か、妙に温かいし、ユーモラスだ。

そんな世界なんだよ、植田正治の世界は。カメラ小僧が大人になってもカメラ小僧のままだった写真家が作りだした、そんなミワクなフシギ世界。

東京ステーションギャラリーで開催中の植田正治のつくりかたに行って来ました。植田正治氏。今年生誕100年だそうで。亡くなったのが2000年ですからね。死ぬまで写真していたし。(植田氏は、写真を撮るコトを「写真する」って言うのです)
フォト

東京ステーションギャラリーは、建物も良いですね。昔の東京駅の赤レンガの駅舎をそのまま使っています。だから、昔の赤レンガの壁を見ながら、作品も見られる。保存の為、触っちゃ駄目だケドね。綺麗にリニューアルしたんだなぁ。(リニューアル後、初めて行った)

ギャラリートークに参加したのだが、説明してくれたキュレーターさんが面白い人だった。若い人だったけど、この人が、今回の展示を監修したらしい。中に土門拳が写ってる写真があったのだが、「足が短いのが、短パンとハイソックスで、更に足が短く見えますよね。」と毒舌ぶっかましたと思ったら、更に追い打ちをかけ、「(僕は)土門拳嫌いなんですよね。」ときたもんだ(爆笑)。
学芸員さんって、通常、好き嫌いって言っちゃ駄目らしいんですよ。自分の好みとか。でも、私ゃ少しくらい、自分の趣味を言っても良いじゃんねぇ〜と思ってしまう。人なんだから、趣味はあろう。そして、人は、好きな作品のコトを話す時キラキラするよ。
そのキュレーターのお兄さん。あひると子供達が並ぶ写真の方を見て「あっちの、あひると並んでる写真とか、良いんですよ。奇跡的に、あひるも正面向いてる。僕、好きなんですけど。」と言って振り向いたその目は、きらんきらんと輝いていたサ。

学芸員さん曰く、植田は、写真家として70年くらい活動していたので、もっと細かく分けて分類するのだが、それだと流れが掴みにくい。今回は、ザックリ4つに分けて、植田は何を撮ろうとしたか?に迫ろうと・・そういう企画だったようです。

植田正治。結構メジャーな方と思いますが、どうなんでしょう?1913年生まれ。
鳥取は境港に住んでいたらしい。子供の頃からの写真大好き少年。旧制中学に入った頃には、もう、カメラをいじりまわしておりました。1931年に写真が雑誌に初入選。1931年に、米子写友会に入会しているので、入ってすぐに写真が雑誌に初入選したんだな。

でも。実質彼が一般的知名度を得るのは、1971年。『童暦』という写真集を出してから。この時、植田氏58歳。還暦間近で、一般的知名度を得たことになります。(勿論、それまでも、雑誌に出せば、賞を取ったりするので、写真愛好家には有名だった) 童暦は、山陰の子供達や人々をのどか〜に撮った写真・・と言えば良いのかな?でも、そこは、植田さんなので、技術や、「何でこの空間構成?」ってのがバリバリなんだが。
この写真集。『現代の歴史』(だったかな?)というシリーズの1冊だったらしいのだが、他が30代くらいの若い写真家だったのに、何故か1人、ベテランの植田氏がいたという、妙な構成だったみたいだよ。

植田氏の写真は『演出写真』と呼ばれます。写真って、今もそうらしいのですが報道写真が1番偉くて(変な言い方だケドね)、自然に写ってるのが1番良い写真ってコトになったりするらしいのですが・・・。
植田の写真は、自然な写真なんてないない(笑)。人物は、正面を向き、不思議なポーズを取らせたり、構図をめちゃめちゃ練った後が見えたり、写真を加工したり。「自然なんてクソくらえ!」です。ようは、ばりばりに演出をかけて撮る写真だから、演出写真。それで、評論家に凄く叩かれたりしたらしいのだが、当の植田は「だって、こうしか撮りたくないし、撮れない。」って言ってたそうな。

後期には、カラーも撮る植田だが、初期はモノクロ。まぁ、カラー写真が普及してなかったってのもあるし、どうやら、植田氏、モノクロの方が好きだったみたい。
最初に、植田本人のポートレートがあった。花をくわえた植田本人がジャ〜ンプ!『花をくわえた自像』。お茶目と言うか、何と言うか。一転して、オシャレに切り取られた『本をもつボク』。傘をさし、ハットを被り、後姿の植田。左手に本を持っている。ハットなので、縁の丸い部分が妙に浮き立って不思議だ。マグリットの絵を思い浮かべたり。

『童暦』からの写真。ポートレイトが沢山あったが、とにかく皆前を向いている。学芸員さん曰く「普通は、こんな撮り方しません。奥行も出ないし、表現もつけずらい。」
でも、植田はあえてこの真正面の肖像画のような撮り方をする。面を被った老女の写真は、ちょっと怖い。「何か無表情だな?」と思って良く見ると、お面。スケキヨ?(ただ、植田は面じゃなくても、無表情のポートレイトが多いケドな)

軒下にセーラー服がかかってる写真も妙に不思議だった。茅葺き屋根の軒先にセーラー服の上着だけ・・・・。

『妹のお守』と言う写真。見た途端私は「デ・キリコの絵みたい」と思う。ここは、童暦の中の、シルエットを使った写真コーナーだったようなのだが。三輪車を押す少女。三輪車には幼子が乗っている。おそらく、妹なのだろう。それが明暗濃く、シルエットとして浮かぶ。影絵みたいだ。

何かのお祭りだろうか?大きな木にワイヤーが繋がれていて、そこに僧侶らしき姿が。これもシルエットだな。

その中に、『小さな工場』という写真があったのだが、学芸員さんが「この写真、元の写真はこんなじゃありません。」と見せてくれた。この小さな工場は、ポツンと1軒の工場が建っているのだが、実際は、左右にも建物があった。植田マジック発動。横の工場は消し(現像の際、その部分だけ感光しないようにすれば消えます)、しかも、草のようにボサボサっとなってる部分は、紙をちぎって、植田が作ったんだそうな。植田氏本人も会心の出来だったのか「見ても誰にも加工だって分からないでしょう。」と雑誌で自慢してたとか(笑)。

『白い道』は、その名の通り、白い道。横には、低木がある。梅・・・かな?ずっと続く道の先には、小さな人。コレ、東山魁夷の絵ですよね(笑)。

これ以前の植田の写真。植田が写真を始めた1930年頃に流行っていたのは、芸術写真と呼ばれるものだった。この頃は、まだカメラを持ってる人自体が珍しく「写真術」とか「写真師」とか呼ばれちゃう時代だったみたいだが。芸術写真とは、写真を絵のように撮る。植田氏もこの頃は、そんな写真を撮っていた。やがて、芸術写真はすたれ、カメラの機能で造形的な画面を作るものに変わる。『新興写真』というらしい。コレは、モダンでシュルレアリズムのような感じの写真らしい。
植田氏にも、そんな写真があった。(ただ、やはり空間の開け方の絶妙さは植田氏のもの)

『近所の家族』という写真。胴体がビニョンと引き伸ばされた写真があったが、こういう写真は、当時良く撮られたらしい。あと、ソラリゼーションの写真もあった。

それから、徐々に演出写真になっていく。砂丘シリーズと呼ばれる写真は、もう、植田のあの写真だ。今回吃驚したコト。植田はそんなに鳥取砂丘に行ってない。近所の海岸で撮った写真も砂丘シリーズとして発表しているので、全部が全部砂丘で撮ったワケじゃないんだそうな。そもそも、植田氏、旅が嫌いで、ほぼ山陰から出たコトないし、何なら、地元境港大好きさんだったらしい。

『ヒトデのある風景』。砂浜に2つのヒトデが立っている。蔦のような紐が後ろにあり、左側に木片。後ろに山と空。ヒトデは歩いているように見える。植田は、空を凄く印象的に入れるよね。

『少女四態』 これ、有名な写真かと。白い服で立つ少女。左肩を手で押さえる柄入りワンピースの少女。セーラー服姿で座る少女。後ろ向きで泣いてるような仕草をする少女。彼女たちは、等間隔で、1列に並んでる。
同じ時期に出した『茶谷老人とその娘』の方が「演出はかかっているが、自然に見える」と言われ、評価が高かったらしい。学芸員さん曰く「自然に見えると評価されるあたり、時代が分かる」と。まだ戦前だよね。

学芸員さん曰く、植田は、戦前と戦後で全く作風が変わらなかったと。そもそも終戦1年前の日記に『念願のライカを買った』と書いてあったり、この人の中では、戦争などアウトオブ眼中だったようである。

『小狐登場』。狐面を被った少年が、ジャ〜ンプ!民話でこんなシーンありそう。何でも、本当は、ストーリーにする予定だったらしい。因みに、お面被ってるのは、植田氏の息子さん。コレ、小狐にスポットライトが当たってるようになってるのだが、どうやったんだろう?露光?

私の大好きな『小さな漂流者』。木片や小枝を並べた砂浜写真。良く見ると手前に、小さい人がいる。あぁ、だから、小さな漂流者なのか!彼らは小人なのか、巨人の国に流れ着いたのか・・・。

植田氏と土門拳氏で、砂丘で写真対決をしたコトがあるそうなのだが。土門氏は、自分を報道写真家と言っており、砂丘では何も事件が起こらず(そりゃ、そうだよね(^_^;))、撮影に凄く苦労したそうな。反面、演出写真の植田は、想像力をフルに使える砂丘は好きなモティーフだったらしい。

『砂丘ヌード』という写真があったのだが。ヌードの女性が後ろ姿で座ってる写真なのだが。まわりに木片や小枝を並べていて、これが、木に見えて、女性が巨人に見えた。不思議な写真。背景は、ほぼ空。

『砂丘人物』。右手にボールを持った男。左にそのボールを指差すような仕草の男。遠くに傘をさす黒いワンピースの女。やはり、不思議である。そして、この絶妙な配置。

『妻のいる砂丘風景』。これも有名な写真かな。右の画面ギリギリに奥さん。右の中央から左下にかけて砂丘がバサリと構図として入っている。その後ろに少し海が見える。岩の配置も絶妙。ホント、構図のとり方上手いよね。

その後、『綴方・私の家族』という企画を発表する。植田の長女和子扮する植田カコの作文と、植田の写真で見せるメルヘンチックな家族の肖像。

因みに。「ここでは、パパ、ママ、カコ」と出て来るが。実際は、和子さんは「父ちゃん、母ちゃん」と呼んでいたし、カコも「和子」と呼ばれていた。つまりコレは、そういう家族を演じたコスプレ記念写真だ・・・と学芸員さん。でも、普通、記念写真って、演出しないか?と。町の写真館にある赤ん坊の写真は皆笑ってる。泣いてる子供はいない。記念写真を撮る時、ピースサインをしたり、良く見える角度から撮ってもらったりしないか?と。「それって、ようは演出なんです。」と。演出されてない記念写真なんてないってコトだね。盗撮以外は、撮られたら相手は構えるもんな。

『パパとトッチン』。トッチンとは息子さんのコト。子供を肩車した植田本人の写真だ。横を向く植田の後ろには、ブーツと傘。傘には山高帽もかかってる。植田氏何故か半笑い(笑)。これ、植田本人が写ってるってコトは、誰が写真撮ってるの?ってコトだが、助手の福島さんという人が、植田の合図で撮ってるらしい。植田は、構図を拘るので、合図がなかなか出なくて、家族の皆は撮影大変だったみたいです(^_^;)。

『パパとママとコドモタたち』。おそらく、この写真が植田氏の写真の中では1番有名。何だろうね、このシュールっぷり(笑)。植田はハットを被って傘を持って横を向き、赤ちゃんがしゃがみ、花を持つ少女が立ち、中央には自転車に乗る少年。その右横に、玩具のピストルで自転車の男の子を狙う少年、そして1番左端には、めいっぱい指を開いた手をももにあて立っている、奥さんの姿。後ろは殆どが空だ。
何だろうね、この家族写真。シュールだよなぁ・・・。でも、冷たくないんだよ。

『ボクのわたしのお母さん』。この写真も良いね。お母さんの着物の袖を引っ張る2人の子供。後ろでもう一人の子供が笑ってる。お母さんも笑顔だ。

植田は、「砂丘の写真家」という呼び名が付く。でも、植田は、砂丘の写真って、そんなにないそうです。で、その呼び名の定着には理由があったりするのだが。それは後ほど。

次のコーナーは『小さい伝記 回帰と反復』。1970年〜1980年の活動。小さい伝記というのは、シリーズの名前らしく、1974年より、12年続いたらしい。新作・旧作と日記が混じる構成だったそうな。演出写真から一時離れた時期もあったようだが、演出写真も復活させる。植田は、故意的に演出と分かる写真を好んだが、それは、その方が、山陰の人達が、より素朴に見えると考えていたからでもあるらしい。
植田は、写真を撮る時、デッサンし、フレーミングの四角を紙に描き、人物配置を決めていたそうな。それだけ練り込んで撮影してたんだね。

小さい伝記にあった写真。小学校の小さなバスケットゴールの写真が不思議だったな。

1972年に、植田は初めて海外旅行に行った。旅行嫌いの植田氏だが「見るもの全てが写真になる。」と、ずっとカメラから手を放さなかったらしい。この海外旅行の写真は『音のない記憶』として発表される。
地下鉄の通気口を覗いてる女の子の写真が良かったが、海外だと、オシャレ感がマシマシになるのね。

植田氏は、先人のカメラマンたちの模倣もした。そして、ソフトフォーカスをかけたような芸術写真っぽいものも復活させた。『白い風』というシリーズらしい。ソフトフォーカスのような朧ろ感を、植田は、白い風と呼んだんだな。詩的な人ですね。コレはカラー作品だった。
学芸員さんオススメの一枚が。前述のアヒルと子供5人が並んでる写真。アヒルも奇跡的に正面向き。やはり背景は空だ。

植田は、自分の手法を何回も反復させて使うのだが(砂丘もそうだね)、この頃は、初期の頃より表現が柔らかくなったようだ。初期は、砂丘に足跡がついているなど絶対なかったのだが、この70年あたりの写真だと、足跡がついていたり。緊張感が和らいできた印象。

植田の名台詞。私この言葉、大好きなんだが。「桜が咲いたら写真にならない。」
そんなコト言う、写真家いる?(笑)。植田は、お日様さんさんふりそそいで、ヤッホ〜!みたいなシーンが好きではなかったようで、それより、曇天だったり、霧だったり、そういうモノを好んだみたい。で、この台詞。そうか・・・。だって、植田の写真に桜満開!みたいな写真確かにねえや。

で、前述の「砂丘の写真」と呼ばれる決定打。1983年に植田は妻が他界し、ショックで写真が撮れなくなってしまった。それを心配して、広告ディレクターになっていた次男の充が、父に「ファッション写真を撮ってみないか?」と打診した。

で、出来たのが、砂丘モード。これも有名。今見ても、ぶっちぎりに恰好良い!キクチタケオとコラボレーションした写真なのだが、大ベテランの植田がファッション誌の写真を撮るというコトで、かなり話題になり、評判も良かったらしい。
で、コレで、植田の「砂丘の写真家」という位置は不動の物になった。植田は、自分のイメージを、意図的に使ってもいたそうな。先ほどの反復もそうだし、この砂丘モードも、砂丘シリーズの砂丘イメージがあったから。植田の戦略と言うと、あれかもだが、そんな部分もあったみたい。

『砂丘モード』の写真。帽子を持つ人物。その帽子の上に立つように人が配置されている。砂丘に黒コートの女性。女性はトランプを撒いている。舞い飛ぶトランプ。帽子が飛んだ仮面の紳士の写真も、べらぼうに恰好良い。これ、帽子は合成だよね?だって、こんな風に飛ばないと思う。

『静物より』という写真シリーズの、中央にコートがすっくと立っている写真も良かった。ジャリの地面に立つコート。

植田も勿論年を取る。だんだん動けなくなってくると、今度は、植田は、自宅のテーブルに箱庭のようなスタジオを作り、そこで撮影する。そこにオブジェを並べて不思議写真を撮るのだ。

『幻視遊間』。私、このシリーズ好きなんだケドね。舟に無数のオモチャの鳥が乗っている。みっちり、隙間なく。これ不思議なのは背景。ブルーバックに、一つ目の妖怪がいたり、何だろう?この背景。

『GITANES/幻視遊間』。これも私の大好きな写真。砂漠にいる沢山の人々。紳士淑女のようなんだ。赤茶っぽい画面は、火星を思わせる。そこにドレスの淑女や、タキシードの紳士たちが大集合。この人々は、植田が紙で作ってるんだよ。
となりには、火星の変な生物なんだろうか?大きなミミズみたいなモノが砂に入っていくところ。それに果敢に挑む(ように私には見える)ドレスの淑女。

植田は、写真をすぐに現像せず、撮影当時の被写体への惚れ込みが冷静になってから、現像していたそうな。これを植田はネガを熟成させると言っていたそうな。そして、植田の写真のタイトルは詩的で素敵なのだが、コレは植田氏曰く「自分の作品は、文学的で詩的で童話的だから」そうしてると。自分でも、きっと、意図的に詩的にしてた部分もあったんだろう。

後半は、花の接写写真や、合成された日本の風景なども。植田は写真の合成にも抵抗はなかったらしいが、学芸員さん曰く「そもそも、フィルムいじったりして加工してた人ですからね。」と。そうだよね。国会議事堂の花火の写真面白いね。学芸員さん曰く「これなんか、実際やったら大変なコトですからね。・・・・ちょっと見てみたいけど。」

砂丘モードの合成方法が展示してあったが、コレ、面白かったなぁ。切貼りして、指示を出していた。色の指示もあったり。

最後は、境港の風景があったが。コレは、植田の死後に写真が上がって来たので、植田本人は写真の現物を見てないそうです。だから、植田本人からしたら失敗作だったかも知れないそうなのだが、学芸員さん曰く「面白い空間の撮り方だったし、出しても良いだろうってコトで。」と。影が入っちゃっていたが、コレもわざとかも知れないね。(露光の失敗かもしれないケド・・・)

あと、A.R.Bのプロモーションビデオを、植田正治が撮ってたって初めて知った。石橋陵が、砂丘大好きで、それで植田に頼んだらしいのだが、コレも植田テイスト満載の画像だったよ。

植田は生涯自分を「アマチュア」だと言っていた。それは本当だと思う。彼にとっては写真は趣味。1番の趣味。大層趣味人だったらしく、蘭を育てたり、町で1番初めにスクーターに乗ったのも植田だったとか。だから、きっと、カメラ少年が大人になっただけなんだね、植田さんって。ずっとカメラ小僧のままだった。

本当は図録が欲しかったんだがお金がないので、ポストカード5枚買ったのだが、図録買えば良かった・・・と今後悔しています。だって、図録3200円くらいしたんだもん・・・。

写真が好きな方、ちょっとシュールな幻想世界を覗きたい方、砂丘好きな方も行くと面白いかと思います。来年1月5日までやっています。

最後に一言。植田正治はつくれない!
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