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2013年08月10日12:37

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幕末史 第二章 前編

半藤一利の『幕末史』、第二章は嘉永七年(1854)三月の『日米和親条約』辺りから始まって、万延元年(1860)三月の『桜田門外の変』までです。嘉永七年は十一月に改元されて安政になり、安政七年三月に改元されて万延元年となりますから、ほぼ安政年間全体と言うことですね。


ペリーが開国を迫り、日米和親条約を締結した頃の筆頭老中は阿部伊勢守正弘でした。この人が実に優秀で、開明的であると同時に人の意見も良く聞き、さらにコチコチの攘夷論者である水戸斉昭に対してもそれだけではダメだと意見もできる硬骨漢。この阿部伊勢守が幕府の舵取りをしていたお陰で、曲がりなりにもこの難局を乗りきったようなものです。

しかし、その阿部伊勢守も、安政二年十一月に死者推定一万人、倒壊家屋一万四千戸以上の『安政江戸地震』によって江戸が壊滅すると、さすがに疲労が極致に達したと、願い出て職を辞してしまいます。

…と、半藤一利は言うのですが、ウィキなどを見ると、むしろ水戸斉昭ら攘夷派に圧される形で開国派の老中を罷免してしまったので、バランスを取る為に開国派の堀田正篤に筆頭老中の座を譲ったのだ、となっています。

そっちの方がありそうかな…

とにかく、阿部さんは表舞台から退場し、攘夷派代表の水戸斉昭とは真逆の立場である開国派を代表する堀田正篤が登場し、江戸城内では水戸斉昭と堀田正篤が対立することになります。

二人の対立は、当然攘夷派と開国派の対立なのですが、それに加えて将軍家定の後継ぎを誰にするのか?いわゆる『将軍継嗣問題』が絡んできて、ますます事態が混乱します。

十三代将軍徳川家定と言う人は、一本や二本ネジが抜けた人だったらしく、現今の国難に向かうには到底頼りなく、次の将軍には相応の能力を備えた人物でないとまずいのではないか…と言う空気が幕政に関わる人たちの中にあったようです。


そんな人物の最右翼と目されていたのが一橋慶喜でした。

まだ二十代前半と年若く、薩摩の島津斉彬、福井の松平慶永、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信などの有力大名の支持もあり、岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志らの開明的な幕臣も推している…言うことないのですが、唯一問題なのは、あの水戸斉昭の息子であると言うことです。

慶喜は認めるが、斉昭のクソ親父にデカイ顔されるのは我慢ならん!と言う人が多かったようですね。

特に、色好みで女性関係のトラブルが多かった水戸斉昭は、大奥から大変嫌われており、慶喜が後継者となることを妨害してきます。

では、慶喜の代わりに誰を推したらいいの?と言うことで浮上してきたのが紀州藩の殿様、徳川慶福です。

この慶福さん、まだ年若くこの頃十歳そこそこですが、なにしろ血筋が良い。十一代将軍家斉の直孫であり、現将軍の家定とは従兄弟の関係。また、紀州藩は御三家の中でももっとも多くの将軍を輩出しています。

逆に、御三家とは言うものの水戸からは一人の将軍も出してません。もっとも、慶喜は御三卿のひとつ一橋家の養子になっているのですけどね。

要するに慶福さんとは、守旧派や反水戸派にとって推しやすいのです。

そんなわけで、開国・攘夷、一橋・紀州、それぞれの思惑と利害でもって様々な駆け引きが行われる…と考えるとワクワクドキドキで血がたぎりますね!

ちょっと長くなってきたので、一旦切って後編に続きます。

後後編では、いよいよ井伊直弼が登場し、安政の大獄、桜田門外の変へと政局は二転三転します!


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