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2013年08月02日11:30

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敬語

敬語を使えない若者が多くなったとは昔から言われる言葉ですが、敬語というのは難しくて、いい年になっても正しく使っているのか心許ないところです。若者に敬語の使い方の間違いが目立つのは、もしかしたら、単に年寄りが年功序列の世の中で、あまり敬語を使わなくてもいい立場になったからだけなのかもしれません。

会社の新人研修などで習う敬語というのはおきまりのものが多く、現実に役に立たない場合があります。単純に言葉遣いだけ身につけても、それでは通り一遍の受け答えしかできず、いざつっこんだ話に及ぶとしどろもどろになってしまいます。わざとらしい敬語ばかりで相手に真意を伝えられないなんてことにもなりかねません。言葉尻だけが丁寧でも、相手に慇懃無礼と映ることもあり、本来の敬意を示すための正しい言葉とは言えない場合もあるでしょう。

マニュアル敬語と呼ばれるものもその一種かもしれません。マニュアル敬語とは、別名バイト敬語とかファミレス敬語とも呼ばれる、接客業特有のおかしな定型敬語のことです。
勘定の時に「1万円からお預かりします」とか、順番待ちで「5番でお待ちのお客様」とか、注文の際「こちらでよろしかったでしょうか」とか言うのがそれ。一見丁寧な言い方に思えますが、日本語としておかしな表現になっています。

「〜からお預かり」というのはおそらく、お札をまずはじめに、その後小銭を受け取るという、支払いの仕草を確認する言葉が省略されたものだと思います。「まず1万円札からお預かりします。次に980円をお預かりします。代金9850円ですので、1000円のお返しとなります。」と言う所、続く小銭の支払いがなくても「〜からお預かり」だけを言うようになったのでしょう。こういう確認の言葉は、例えばレジでお釣りを渡すとき、いちいち「5,6,7,8,9千円と1,2,3百円のお返しとなります。」などとお金の数を数えることがありますが、そういう丁寧さと同様のものでしょう。

「〜でお待ちのお客様」というのは「〜の番号札をお持ちになってお待ちのお客様」が省略されたものなのでしょう。敬語というのはお釣りの確認にもあるように、とにかく丁寧に、余計にいろいろな言葉をくっつけたがるもので、省略してしまうと奇異なものになってしまうようです。

「よろしかったでしょうか」が敬語としておかしいのは、もうちょっと難しい問題です。正しくは「よろしいでしょうか」で、過去形で伺いを立てるのはおかしいというわけです。伺うのであればその決定権がなければ意味がない。「こちらでよろしかったでしょうか」は単に卑屈に構えているだけで、実質こちらの都合を押しつけていることになるのです。逆に「こちらになります」と、伺わないのなら敬語として正しくなります。とは言え、これが正しい言い方になる場合もあります。常連客に対していつもの注文に応えるときには、「こちらでよろしかったでしょうか」は必ずしも間違った言い方とはなりません。これはサポートとして行った定例の行為そのものに確認を求めるという意味になるのです。

しかし、厳密に言うとそれさえ正しい敬語とは言えないのです。まぁ「よろしいでしょうか」は「よろしゅうございますか」が正しい敬語なんですが、そういう言葉遣い上でなく敬語の本質として正しくないのです。
例えば上司に対して以下の敬語は正しいでしょうか。
○ねぎらいの言葉をかける「ご苦労さまです」
○頼みごとをする「これをお願いいたします」
○ほめる「すてきなお召し物ですね」
○飲み会に誘う「ご一緒に行かれますか?」

「ご苦労さまです」じゃなく「お疲れ様です」が正しいだろうと思った方。では、上司から「明日は接待ゴルフで朝4時起きなんだよ」と声をかけられたとき「お疲れ様です」と言うのは言葉としておかしくはありませんか。「それはご苦労さまですね」の方がしっくり来るでしょう。なぜなら「お疲れ様」には完了のニュアンスがあるからです。

「ご苦労さま」が敬語として正しくなく「お疲れ様」が正しいと一般に言われるのも、実は単なるマニュアルです。その意味を考えなければいけません。
「お疲れ様」がより正し気に聞こえるのは、それが済んでしまったことだからです。一方「ご苦労さま」はこれから行うことが大変だろうと慮るニュアンスがあります。「ご苦労さま」はこの先「させる言葉」で「お疲れ様」は既に「してもらった言葉」なのです。この方向性が重要です。

目下の者が、目上の人がこれから行おうとしている事柄に対して言及するのは、そもそも僭越というものです。お釣りを一枚一枚数え上げる行為や、先回りして確認を求める「よろしかったでしょうか」が敬語としておかしいのは、そうした目上の人のする行為を目下が代行することが、僭越で敬意を欠くことだからなのです。そのこと自体が敬意を欠く行為に対して、正しい敬語などあるはずもないのです。

ここには暗に、目上の者は指令する側で、目下はそれを承るのみの立場という、封建主義的身分制度が隠されています。敬語が成立した社会というのは、完全に身分が分離していて、目下の者が行為をサポートしたり代行したりすること自体あり得ないことだったのです。御簾の向こう側の貴人に対し、ねぎらいの言葉をかけることも、頼み事をすることも、ほめたり誘ったりすることも、全てありえないことなのです。
なので先に挙げた敬語は全部間違っているのです。敬語において、目上の人を自分と同列の地平においてしまっては、そもそもいけないのです。

極論を言えば、正しい敬語を使いたいと思う人は、現代のこの世の中で親しく他人と交流することはできないでしょう。自由・平等・博愛を理想とする現代社会は、敬語にはなじまないものだからです。
正しい敬語のためには、まず自分と相手の地位を峻別し、そこに壁を作って上流下流の立場を分かたなくてはなりません。協働するということは敬語世界の埒外なのです。

しかし、現代の世においてそうしたあり方というのは正しいことでしょうか。「朝4時起きなんだよ」と親しく声をかけてきた相手に「畏れ多いことでございます」と正しく敬語を使うことが、今の世の中で求められているでしょうか。

以前、保険会社のCMで、親しげに会話する二人の男性が映り「このどちらかが保険会社の人間です」というようなコピーが出るものがありました。お互いの信頼関係や、人生を共有する保険という商品の特性を表す、上手い広告だなと思ったものです。会話の中身は聞こえませんが、そこで敬語が使われていないことは明らかです。
お客さんに対し、正しい敬語が使えない若者をダメだというのは簡単ですが、今の世の中本当に身につけるべきは、敬語なしで信頼を得ることができるような対等のつきあい方なのかもしれません。
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