mixiユーザー(id:1682634)

2013年03月16日17:23

252 view

★生きる権利と生かす義務

社会問題において何か分からないことがあれば、自然状態(無法状態)から社会状態に変化したときに人々がどのようにルールを定めたかを考えます。
私の考え方では、権利とは「様々な自由のうちルールによって認められたもの」であり、義務とは「様々な責任のうちルールによって負わされたもの」です。何かを必ず実現してもらう為には「それを実現してもらえる権利」でなく「それを実現する義務」の設定が必要になります。

★「生きる権利」と「生かす義務」

完全かつ継続的なセーフティネット(年金や健康保険や生活保護やベーシックインカムなど)で全ての個体に快適な生命活動(衣食住や教育や医療など)を保障するのは素晴らしい理想だと思います。
しかし、その実現の為には再配分の為の莫大なリソースが必要です。リソースの総量が足りなければ、誰かに犠牲を割り当てるしかありません。以前にも書きましたが、例えば最貧国が憲法で「全ての国民は快適な衣食住と普通教育と無料医療を受ける権利を持つ」と定めても、それはどうやっても実装できないのです。
そんな場合に最小の犠牲で済ませるように利害調整するのが政治の役割だと思います。しかるに、トリアージが理性的に議論されているとは思えません。議論を許されるのは「1人も犠牲にしない為にどうやって無理をするか?」ばかりです。確かに、過剰な人権意識が蔓延した現代の民主主義においては、どんな形であれ「ただちに発生する犠牲」を出すことは政治家にとって致命的になります。結果的に、将来により多くの犠牲を割り当てざるをえなくなりましょう。いうなれば、未来の日本を現代の日本の植民地にする政策です。
このままではいつか国家によるセーフティネットが破綻したときに数多くの悲劇が発生します。昔ながらの間引きや姥捨ては形を変え、堕胎や晩婚化や少子化や社会的入院や老人ホームや孤独死などの形で増えるでしょう。また、経済的理由による犯罪や自殺や饑餓も一挙に増えるでしょう。現在の法律および道徳観ではそれらは避けるべきことです。
だから、なんとしても余裕を作り続けなければなりません(勤労の義務にはそのような意味も込められているのだと思います)。

★生存支援の枠組み

もともと貧困者に対する生存支援は親族や地域が担ってました。そして近代になって国家が生存支援を新たに担ったときには二重のセーフティネットが存在してました。やがて、親族や地域は貧困者への生存支援を国家に任せるようになりました。国家からの支援を新たに得た世代と親族や地域による負担を免れた世代には確かに利得がありました。しかし、こうなるともう簡単には元には戻せません。なぜならば、国家による生存支援が限界に達しても、貧困者だけでなく再び負担者になるであろう親族や地域までもが「生存支援は“国家に固有の義務”だ」と主張するからです。
個人的意見ですが、国家による補完的なセーフティネットが破綻する前にどんなに困難であろうとも親族や地域による本来のセーフティネットを復活させ多重化を図るべきだと思います。要するに「生かす義務」を割り当てるわけです。< ときどき私が「大家族制への回帰」や「地域社会の復活」を唱えるのはこういう意味も含まれてます(このあたりはまた別稿で)。

「自国民が犠牲にならなければいい」というのであれば、海外との経済的な結びつきを強くしてババを押し付ければいいです(生存支援の枠組みの拡大)。しかし、この結びつきには海外からババを押し付けられるリスクもあります。いろいろ考えるべきことが多いです。
14 7

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2013年03月>
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

最近の日記

もっと見る