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2012年11月21日10:42

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キラキラDQNネーム

今時の若い親が子供に付ける読みづらい名前や、常識的に考え難い名前を、「DQNネーム」と呼ぶそうです。DQNは「ドキュン」と読むヤンキーなど非常識で知識や教養が乏しい者を指すスラングです。そのスラングが侮蔑的であるとして、新しく「キラキラネーム」なる言葉が編み出されて、それが今年の流行語大賞にノミネートされたりもしていました。
キラキラでもDQNでもいいですが、確かに今時の子供の名前はあまりにユニークすぎて、古い世代には理解し難いものがあるかもしれません。
例えばこれらの名前を読めるでしょうか。すべて実際に付けられた名前です。

夢希(ないき) 星影夢(ぽえむ) 奇跡(だいや)  陽夏照(ひげき)  爆走蛇亜(ばくそうじゃあ) 苺苺苺(まりなる) 琉絆空(るきあ) 皇帝(しいざあ) 本気(まじ) 窓風朝穂子(そふぃあすいこ)

確かに教養を感じさせない名前で、「なんでその字でそんな読み方なんだ。だいたいそんな名前を付けられた子供がかわいそうだと思わないのか。」と突っ込みたくなるのは、旧世代なのかもしれません。自民党の総裁も講演で「そういう名前をつけられた多く(の子供)はいじめられている。ペットではないのだから、そういう親も指導しなければいけない。」などと発言していましたが、http://goo.gl/X06TY
実際、このような難読奇抜な名前の子どもたちは多くいて、もはやいじめの対象にならないほど当たり前になりつつあります。幼稚園や小学校では名簿の字にはフリガナが必須という状態になっているそうです。

こうした事態を日本の伝統文化の破壊だと嘆く向きもありますが、はたしてそうでしょうか。

日本の法律(戸籍法)では、人名に使用できる漢字については常用漢字と人名用漢字に限定されていますが、その読みについては戸籍に記載されないので規定がありません。これはつまり、お上にとって民草を管理するために必要なのは名前の字だけであって(その字があまりに自由では煩雑化するので規制するが)、それをどう読むかは、呼ぶことがないのでどうでもいいということなのでしょう。
一方で、住民登録の時にはその読みが重要視されます(一番最初の住民登録は出生届け)。なぜなら自治体の実際の施政者は管轄の住民を呼びつける必要があるからです。逆に字面なんてどうでもいいのです。
この縦割り制度がもたらした法律上の乖離が、前記したようなキラキラDQNネームを可能にしているわけです。あなたの名前の字が「太郎」でその読みが「はなこ」でも一向に構わないというのが、日本の行政の人名に対する考え方なわけです。

この考え方は何も今になって(近代法の成立によって)生まれたものではありません。
漢字には音読み訓読みがありますが、名前に付けられた時にだけ読む名乗訓(人名訓)というものがあります。歴史の授業で人名を覚える時、とんでもない読み方に苦労した覚えが誰にもあるでしょう。
「親」を「ちか」と読んだり、「経」を「つね」と読んだり、「師」を「もろ」と読んだり、「真」を「さね」と読んだり、「朝」を「とも」と読んだり。
これらの特殊な読みは、もともと漢字の訓読みというのが適当なものだったためなのです。正しい訓読みというものがそもそもなかったのです。漢字の持つ意味合いに関連している日本語がその読みとしてあてがわれたのであって、その意味では現代のキラキラDQNネームの読み方と同様といえるのです。

毎敏(つねとし) 信満(さねまろ) 将聴(まさあきら) 美臣(よしお) 舎栄(いへよし) 政要(まさとし)
これらは江戸時代の国学者、本居宣長の門下生たちの名前で、宣長をして、「近しきころの名には あやしき訓有て いかにとも よみがたきぞ 多く見ゆる(最近の名前は変な読み方をして、どうしても読めない名前を多く見かける)」と言わしめています。(「もとおりのりなが」もどうかと思う読みですが)

このように特殊な名前は昔からあり、今に始まったことではないわけです。
どうしてそういう名前が生まれるかというと、それが(多少歪んで見えるとしても)親心というやつだからでしょう。世界でたった一つの宝物である我が子には、ありきたりでない個性的な名前を付けたい。しかもわが子を呼ぶ際、自分が大好きな言葉であってほしいと思いのでしょう。
それは確かに親の身勝手な願望であり、名前は社会に通用させるものなのだから、少しは社会との折り合いをつけるべきというのも道理ではあるわけですが、誰も日本の将来の社会を憂いて子供を作るわけではなく、もともと子供をもうけるという行為自体が身勝手なものなのですから、致し方無いというべきではないでしょうか。

「諱(いみな)」というのをご存知でしょうか。それは、その人に付けられた本当の名前、実名のことです。例えば巷に知れ渡っている「坂本龍馬」の名前ですが、「龍馬」は通名=字(あざな)であって本当の名前は「坂本直柔(なおなり)」と言います。
詳しく言えば、武士の名前は氏名(うじな)+苗字+諱(いみな)+字(あざな)で構成されており、
源 坂本 直柔 龍馬(みなもとの さかもと なおなり りょうま)というのが正式な龍馬の名前ということになります。
なぜ、本名が知れ渡っていないのかというと、実名である諱は忌み名とも読み、本当の名前を呼ばれることが無礼なこととして忌避されたからなのです。本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を呼ばれるということはその霊的人格を支配されると考えられたのです。こうした慣習は実名敬避俗(じつめいけいひぞく)と呼ばれ、漢字文化圏に顕著に見られます。
それを昔の話と思うなかれ。今でも会社で上司を呼ぶ時、名前でなく役職名で呼ぶ習慣が日本では定着していますが、これも実名敬避俗の表れと言えます。

このように日本では、長らく呼ばれる名前と本当の名前は別のものとして扱われていたのです。それが明治以降の、伝統や市民感情を顧みずに拙速に取り入れられた西洋式行政統治体制の杜撰な仕組みにより、歪められてしまったわけです。
おかげで親の思いと裏腹に、子供の名前には誰でも読める当たり前の文字と読みのものを付けるのが常識とされてしまい、その同調圧力に逆らうと、DQNだ、身勝手だと批判されることになったのです。

 
しかし、この問題を解決するのは実は簡単だと思います。問題解決の基本。その成立の事情に立ち戻ればいいのです。名前をその本来のあり方、日本の伝統文化に則って、諱(本名)と字(呼び名)を復活させ、書き名前と読み名前で別々に管理すればいい。戸籍には読み仮名のない漢字の諱(いみな)を記載し、住民票へは諱とは一切関係なく、読みだけの字(あざな)を仮名文字で登録するのです(出生届に戸籍登録した漢字の欄を無くす)。普段の生活で戸籍上の本名(霊的な人格と深く結びついた)は一切使われることなく、小学生の名札には読みやすい仮名文字の呼び名が記載される。死んでお墓に墓碑銘を刻む時、初めて苗字+諱+字の正確な三つ揃いの名前を使うのです。
親は贈り物としての名前を、教養云々言われることなく子供に与え、宝物のように秘匿することができるし、周囲の人達は親しみやすく名前を呼ぶことができる。本人も自分のプロフィールをフォームに入力する際、いちいち変換の難しい漢字と全角カタカタの読みを入れるような煩わしさがなくなる。
まさに三方良しの解決策だと思うのですが、どうでしょう。
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