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2012年11月14日16:06

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ルーズ

日本人は時間にルーズだと、とある外国人が言っていました。

それは何かの間違いだろう、と日本人なら誰しも反論したくなるのではないでしょうか。日本人ほど時間に厳しい国民は珍しいほどです。鉄道のダイヤは正確だし、待ち合わせや仕事にしても定刻の15分前には到着してるのが常識とされます。
しかしその外国人いわく、確かに日本人は開始の時刻には正確だが、終了の時刻はひどくいい加減だと言うのです。確かに仕事の際、始業時間を厳守しながら終業時間はダラダラと先延ばしてサービス残業しているサラリーマンなどを多く見かける気がします。決められた始業時間を守るのであれば、同様に終業時間に対してもきっちり守らなければ、時間に正確だとは言えないでしょう。最初だけきっちりしていれば後は適当でというのは、時間に対してルーズな証拠と言えます。なぜなら、終わりが決まっていなければ、その途中の仕事もダラダラしてしまうものだからです。本当に時間管理のできる人間というのは、その間の時間配分までしっかりできている人の事です。そうすれば必然終わりの時間も正確になっていくはずです。始業の時間だけ厳しいというのは、単に決まり事に対して表面的に従順なふりをしているに過ぎないのかもしれません。植木等が「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ。二日酔いでも寝ぼけていてもタイムレコーダーガチャンと押せばどうにか格好がつくものさ。」と歌っていたような感覚が、どうやら日本人には備わっているのではないでしょうか。
日本人をルーズだとする外国人の言い分は、あながち間違ってはいないかもしれません。

当然ながら、終わりの時刻というのは次のことが始まる開始の時刻でもあります。仕事の終わりの時間は家庭での時間の始まりの時です。日本人はその違いをともすると、仕事の時間は公的な時間、家庭の時間はプライベートな時間と捉えがちで、プライベートとは自分の時間、身勝手な時間だと思っているような気がします。しかし、家庭だって社会の一部です。他者との関わりがそこに発生しているとしたら(それが奥さんや子供だったとしても)それは公的な時間であって、その人の勝手な判断で蔑ろにしていいものではありません。本質的に仕事と家庭で軽重があるものではなく、それぞれの事柄ごと、それぞれのタイミングで重要度は変わるものです。

休憩時間以外は一瞬たりとも気を抜かずしっかり仕事に向かえ、それがプロというものだ、というような紋切型の仕事論を主張する人をたまに見かけますが、本当にそうでしょうか。忙中閑あり、仕事にも緩急があって、その力加減をうまく調整できるのが本当のプロフェッショナルなのだと僕等は思うのですが如何でしょう。逆に、家庭にあっても、常に気の抜けた風船のようにしていて良いわけではなく、身内に対してもきちっとすべき時は、仕事同様、真面目に対応しなければならないものです。

「ワーク・ライフ・バランス」という言葉を、近頃よく耳にします。「ディーセント・ワーク」なる言葉もそれと一緒に使われることがあります。「ディーセント・ワーク」とは「適正な仕事」という意味で、国際労働機関(ILO)が提唱する、働きがいのある人間らしい仕事のことです。それが「ワーク・ライフ・バランス」のとれた、つまり仕事と生活が調和している、目指すべき理想の状態と定義されるのです。つまりプライベートな時間をバランスよく確保し、生活も充実しているのが、公正で好ましい仕事と言えるというのです。
しかしそれはあまり正しいとは言えないのではないでしょうか。そこにはワーク(仕事)とライフ(生活)を二項対立で捉えているフシがあります。本来、仕事は生活の一部であり、生活がそのまま仕事に融合しているのが、人間のあるべき姿なのではないでしょうか。バランスが意識されているうちは、そこには分離意識があり、本当の意味でのディーセントな働き方とはいえない気がするのです。

労働という概念は、18世紀の産業革命以降、労働者という仕事を単位的に切り売りする階級の誕生によって確立します。ウィキペディアの記述によると、労働とは奴隷制の一形態で、賃金奴隷制度のことであるという見方もあるそうです。なぜそんな言い方が可能かというと、賃金労働が生産活動への正当な対価として等価であれば、そこに剰余は生じず、彼らを雇っている資本家は利潤が得られないはずだからです。生産手段を所有する資本家が潤うということは、そこには必ず剰余労働があり、その分の労働搾取が行われていることになる。それはつまり、持たざるもの者を使役する、形を変えた奴隷制度なのだというわけです。

かつて狩猟や農耕といった原始的生産活動は、生活と密着しており、労働ではなく宗教的行為であったり、芸術であったり、あるいは娯楽でもありました。おそらくその頃は生産効率が低く、時間的ゆとりは無かったでしょうが、そうした活動が生きることそのものであったため、苦痛とは感じなかったのではないかと思います。それが賃金労働という、一定時間を奴隷として活動するという仕組みが生まれることで「苦役」となり、それに対する非労働時間を自由時間として「解放された」と感じるようになったのでしょう。

よく、人気芸能人が、一日も休みがなく寝るのも毎日2〜3時間しかないような売れっ子ぶりを自慢気に話したりするのを聞きますが、それが労働だとしたら労働基準監督署はその芸能プロダクションを摘発しなければならないはずです。労働基準法では、使用者は労働者に休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて労働させてはならず、一週間の各日については、労働者に休憩時間を除き一日について八時間を超えて労働させてはならない、とあるからです。
人気は一過性のものなのに、そんな事言ってられるかと、おそらく芸能人本人も言うでしょう。芸能人の仕事というのは労働力や労働時間の切り売りではなく、生活と仕事が分かちがたく融合しているものなのだから、労働法が無闇に適用されるべきものではないでしょう。労働が生まれる前のかつての仕事というも、芸能人のような感じだったのではないでしょうか。
 
「ホワイトカラー・エグゼンプション」という制度があります。一律に時間で成果を評価することが適当でない労働者(主にホワイトカラーと呼ばれる頭脳労働者)の勤務時間を、上記のような労働時間の基準から自由にする制度のことです。
厚労省はこれを自由時間を増やす「家族団らん法」だと言いましたが、政策審議会にこれを諮問すると、世間からは「残業代0法案」「過労死促進法」と批判され、立ち消えとなってしまいました。
確かにタイムカードを押せば格好がつくと考えているような労働者にとっては、時間の裁量と引き換えに求められる成果によって、過労死させられると心配になるのも無理からぬ事。自分で時間を管理できないルーズな人にとっては恐怖の制度なわけです。しかし、いつまでも単位時間あたりの労働を切り売りする奴隷のままでいいものでしょうか。

もともと労働法というのは前世紀の初め、第1次・2次産業を対象に整備されたもので、労働人口のうち半数以上を第3次産業が占める現在にあって、時代にそぐわないようになって来ました。サービス業においてもいわゆる労働集約型ビジネスというものが存在する限りにおいては、労働の時間を制約する法律は必要と言えます。しかし、IT技術の進歩で労働の集約が必ずしも時間や場所の集約に依らなくても可能になって来たのです。

カタカナ言葉ばかり続いて恐縮ですが、「ノマド・ワーキング」という言葉が最近流行っています。ノマドとは遊牧民のことで、彼らのように場所や時間にとらわれず、スマートフォンやモバイルパソコンを駆使して自由に働くことを「ノマド・ワーキング」と言います。喫茶店やフリースペースを使い、就業時間に拘らず、いつでもオンタイムであり、いつでもオフでもあるという働き方。必ずしも自由業者を指す言葉ではなく、所属する組織にとらわれず、インターネットにより自由闊達に連携・協働を可能とするのがノマドワークスタイルと言えます。IT技術が進歩したおかげで、なにも会社に雁首を揃えなくても同等の、いやそれ以上の機動力で仕事ができるようになったということです。ノマドワークにおいては、始業時間や終業時間は関係ありません。労働の集約もシステムがオンライン上でやってくれるのです。(大規模なシステムプロジェクトの作成を、世界各地のパソコンでやっている様子を想像してみてください。)
こうしたワークスタイルで重要となるのが「アテンション・コントロール」だそうです。生活や仕事がないまぜになった時間の中で、常に集中力(アテンション)を維持し続けるというのは不可能なことなので、リラックスする時間を織り込みながら、それを上手にコントロールする必要があるわけです。
これから求められるのはそういった技術・資質であり、それを身につけた時、はじめて日本人は誰からもルーズだなどと言われなくなるのではないでしょうか。
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