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2012年04月21日16:13

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P.P.Pasolini’s AFFABULAZIONE 騙り

『P.P.Pasolini’s AFFABULAZIONE 騙り』に行きました。

昨年もやった、川村毅氏演出のパゾリーニシリーズの第2弾ですね。パゾリーニは、イタリアの映画監督です。『豚小屋』や『ソドムの市』などの映画を撮った人。パゾリーニは6本戯曲を書いていて、それを全て日本で上演しようと言う企画の1本なのです。

前作は『豚小屋』。今作は、『騙り』。解説書などには『寓話』と言う翻訳で載ってたりするらしいんですが、AFFABULAZIONEの意味が『観客が作品に何かを信じるように導かれる状態/プロセス』、『教えを孕んだおとぎ話/嘘』、『観客はかたり物に確信させるようにかたりしめられる』と言うようなニュアンスがあるので、今回は『騙り』と言うタイトルにしたそうです。

まず、見終わって思ったコト。
「絵が描きたい!!」でした。
こんな感情になったのは久しぶりです。もう、強烈に思いました。「絵が描きたい!」と。
もっと言うと、「美しい男性同士の絡みが描きたい!」と思ったのですが、どだい私の絵じゃ無理って言う・・・(^_^;)。
そりゃ、山本タカト氏や、カラヴァッジョや、シメオン・ソロモンならば、さぞ美しく麗しく、男性同士の絡みを描くのでしょうがね。私の絵じゃ無理。

次に思ったコトは、私は、往々にして、色んな物に取り込まれ、自分を見失うんですが、「あ、ちゃんと私を、本来の私の立ち位置に戻してくれたな。」でした。
私が健全な場所に行こうとした時に、「アナタ、本来、そんな健全な人間じゃないでしょ?もっと不健全な人間でしょ?」と言って、私を本来の立ち位置・・・不健全な場所まで戻してくれるモノ。
それは、パゾリーニだったり、ジャン・ジュネだったり、三島由紀夫だったり、山本タカト氏の絵だったりするのですが、今回は、このパゾリーニのお芝居が、私を本来あるべき場所・・・不健全な場所まで戻してくれました。
有難う、パゾリーニ。有難う川村さん。

前作が『豚小屋』で、『豚小屋』は、父親が悪人で、息子視点から父親を見る・・と言う形態でしたが、今回は逆。父親が自分の内面及び、息子への愛憎や確執を吐露する・・と言うモノでした。
どっちも、父と息子との近親相姦の要素があるのは変わらないけれど。

・・・てか。コレ、前回も書きましたが。映画の『豚小屋』の近親相姦って、父と息子でしたっけ?母と息子じゃなくて?舞台版は、父と息子のようだったんだよな・・・。台詞が「父との〜」になっていたから。因みに。パゾリーニは、映画の『豚小屋』を撮影している時に、同時進行で、豚小屋の戯曲を書いていたそうな。『騙り』は『アポロンの地獄』を撮っていた頃に書かれた・・って何かで読んだんだケド、確かに『アポロンの地獄』みたいだな・・って思った。
アポロンの地獄は、オイディプス神話を基にしたお話なんだケド。で、この『騙り』は、オイディプス神話・男色版みたいな感じだった。でもそれだと、松本氏の映画『薔薇の葬列』みたいになっちゃうと思うんだが、こちらは、オイディプスとは反転してるの。オイディプスは「父殺し」の話だよね?父を殺して息子が母と寝る話。こちらは、息子殺し。でも、殺しながらも、父は息子と寝るんだな。愛してるから束縛し、愛してるから息子のようになりたいと思い、愛してるから憎み、愛してるから殺すんだ。

舞台が幻想的で美しくて、凄く耽美で綺麗だったケド、あの哲学的で詩的な台詞を1時間45分集中力をきらさず聴くのって結構大変ね(^_^;)。体力と知力を使う。脳みそフル回転!
で、あの哲学的・詩的な長台詞を全部覚えてる手塚とおる氏って、スゲエ!って思った。

途中、哲学問答みたいな会話があったりするんですよ。哲学で形而上的な会話だから、会話内容を追うと言うより、感覚で読み下せ!なんですが、あれ覚えんの大変だと思うぞ(^_^;)。

邪ま目線では、手塚氏の息子との絡みのシーンが、とてもエロくて美しくて、切なかったな・・と言うのと、手塚氏がオナニーシーンを演じてて「豚小屋に続き、また、ズボン下す演技があるんだな。」って思ったって言う。
でも、手塚氏、健康(劇団健康)出身の為、既に結構なコトはやらされていた・・と言うコトを思い出す・・って言う(笑)。でも、1番スゲエ役って、松尾スズキ氏脚本の『ドライブイン・カリフォルニア』のケイスケかも知れない。このお芝居大好きだけど。上演台本持ってるほどに。

上演の5日前に、ネットでチケットを取ったので、最前列しか空いてなくて(座席指定で取った)、最前ど真ん中の席だったのですが、座・高円寺って、1も2も、最前列って見づらいのね(^_^;)。特に、今回の舞台、両サイドに幕があって、そこに文字や映像を写すのだが、最前だとそれが見づらい上に、演者が、その幕内で、シルエットのように演じると、それがちゃんと見えないって言う・・・(^_^;)。
その反面、目の前で、美しい男性同士が絡むので、『男の一生』のデジャヴを起こした私。(男の一生は、坂手洋二氏と手塚とおる氏がやった2人芝居。どう見ても、坂手氏と手塚氏が乳繰り合ってるようにしか見えねえ場面があった。目の前で、色っぽい兄ちゃんと恰好良い兄ちゃんがくんずほぐれつするので、私は「コレは何かの試練なのか?」と思った。「私、何某か試されてる!?」と。で、その時も、それを最前列で見ていた私。余談だが、その芝居のフライヤーのイラストを描いたのは松尾スズキ氏。)

※以下、『P.P.Pasolini’s AFFABULAZIONE 騙り』の感想を書きます。お芝居はまだ続いていますので、ネタバレがお嫌な方は読まれない方が良い・・・と書きたいところですが、こういう哲学的・幻想的な衒学芝居は、説明しても良く分からないと思うので、言うほどネタバレになってないような気はします。

でも、一応、ネタバレOKの方のみいらっしゃいまし〜。

P.P.Pasolini’s AFFABULAZIONE 騙り
会場:座・高円寺1

作 ピエル・パオロ・パゾリーニ
翻訳 石川若枝
演出・構成 川村毅
衣装・美粧(メイク) 宇野亜喜良

出演。父親・・手塚とおる 息子/息子の亡霊・・谷部央年 母親・・大沼百合子 神父・・真那胡敬二 少女・・河合杏南 降霊術師/アポロン・・蘭妖子 天使・・柊アリス 乞食/オイディプスの影/ライオスの家来/警察署長・・中村崇 ソフォクレスの影・・笠木誠

ザックリ粗筋。
冒頭、天使が天上の舞を舞う中、ソフォクレスの影が、観客に謎かけのような物語のヒントのようなエピローグを捧げる。「歴史上最悪の時期にある社会の観客にとっては難しい、数少ない詩の読者にとっては易しい言葉。よく耳をすませてください。それだけです。あとは皆さんなりに追っていただきたい、終わるけれど始まらないこの悲劇の少々破廉恥な成り行きを−−−私の影が再び登場するまで。そのとき状況は変わるでしょう。そしてこれらの語句は、恩寵を得るでしょう、こんどは、ある客観性をはらむがゆえに。」

父親が夢を見て魘されている。父親は魘された夢の内容はハッキリ覚えていないようだが、駅や水遊び、友達などのキーワードがある。この父親は成功した実業家だ。妻は、旦那の魘されている様子を「疲れているのだ」と呆れ顔で言うが、父親には他に何か葛藤があるらしい。この父親には19歳の息子がいる。美しい金髪を持つ息子。父は言う「何故に、あの子は、あんな金色の髪なのだ。あんな色は、港の労働者階級にしかいやしない。私には似ても似つかない。あの汚らわしい金髪!」と。息子は、父と確執があり、昨晩も口論をしたばかりだ。父は言う。「オマエは、私とは全く違う。いや。私はオマエになりたいのか?オマエのその若さ。精力の漲り。それは、オマエが息子だからか?いや、それならオマエは父親だ。私の方が子供なのだ・・・」と。息子は、父との口論に疲れ果て、部屋から出て行こうとする。父は「部屋から出て行くと言うことで、私を拒絶する。」とまた嘆く。父は、息子に「オマエが欲しがっていたナイフをやろう」と、ナイフを渡す。息子は喜ぶも、父は「表面上喜んでいるだけだ。」と言う。息子は少し困ったように「本当に嬉しいよ。」と言う。

精神的に疲弊した父親は、神父を呼び、懺悔をするも、父親は、その懺悔だけでは精神が落ち着かない様子。妻も心配し、神父に相談しているようだが・・・。

父親は、自分の内面を吐露する。私は息子になりたし、息子には私のようになって欲しい。
息子があの純粋さ若さゆえの無知なる純粋さを宿しているのは何故か?哲学的なものいいが続き、父親は、鬱屈とした自慰行為を始める。

ある日、息子が少女を連れてくる。息子のガールフレンドのようだ。「レコードを聴きに来たの」と少女は言う。少女もまた、息子と同じような金髪。父親は、息子への確執、そして、おそらく、少女に息子を取られてしまうと言う嫉妬心から、「オマエは、きっと娼婦なのだ。私を誘惑しに来たのだ。」と詰る。少女は特に気にした風でもなかったが、息子は、少女を侮蔑されたコトに腹を立てる。
ある日息子は言う。「父さんの言った通り、これからは勉強をするよ。」とおそらく、皮肉半分、本気半分で。父は「それは、私に対しての出まかせだ。」と言う。私に対して取り繕っているだけだと。
父親は、また、あの夢を見る。駅、少年、水辺・・・。

ある日、息子が酔って帰って来た。友達と遊んでいたようだ。警察署長は「あの輩は、アナタ達のようなブルジョワが付き合う人じゃありませんよ。」と忠告する。
父は息子を罵倒するも、息子は「アンタは、所詮、ただのブルジョワだ!」と罵倒する。
父と息子詰り、喧嘩し、葛藤の末一緒に寝転がり、手を絡ませあい、交歓のようなコトをする。父は、息子をなじるも、息子は「僕は、アナタを嫌ってはいない」と言うが。父は言う「オマエが父。私の方が息子なのだ。」と。

ある日。息子がいなくなってしまった。息子の居場所を降霊術師に相談に行く。降霊術師は、息子の場所を水晶玉占いで突き止め教えるが、降霊術師は「本当に息子の居場所を知りたいだけか?」と尋ねる。本当は、息子の内面をも知りたいのでは?

父親は夢の中(と思う)で、ソフォクレスの影と哲学的な対話をする。息子の話をしようとすると、オイディプスの話をされる。オイディプスの影と息子が重なる。父は言う。「息子は私を殺したがっている。私も息子を殺したがっている。」

父は叫ぶ。「父親殺しは、王殺しだ!」と。

少女の家に行く父。息子が少女の家にいるコトを突き止めたのだ。少女は「何故、彼がここに来ると思うの?」と父に問う。父は少女の靴に接吻し、「どうか、息子のコトを教えてくれ。」と頼む。少女は「そう思うなら、あそこに隠れて、私たちを見ててご覧なさい。」と言う。「私たちがこれからするコトを見ててご覧なさい。」と。
おそらく。少女と息子がセックスをしていた・・・その最中であろう。父は息子を殺す。

父親は刑務所に入れられる。乞食は言う「覗きをして、牢屋に入れられたのか?」と。父の内面の吐露。父は息子を殺した。まだ息子の身体は温かく、そんな時、思ったのだ・・・と。
母親は、この事件にショック受け自殺。母親の最後の言葉は「私の愛している人を、もう愛することが出来なくなった。」であった。

舞台上に、十字架にかけられた息子が登場する。その横には、誰もいない十字架。父は自ら、その十字架によじ登り、自分で十字架にかけられる。
天使が再び、天上の舞を舞う。

そんなお話。

やはり『アポロンの地獄』にちょっと似てるかな?

ストーリーを追う為に、演出部分をきったのだが、部分部分に、新聞紙で出来た大量の紙ふぶきが降って来るのだ。それを、陶酔したような目で眺める手塚氏が美しい。途中、それを掴みとり、癇癪を起したように丸めて叩きつける演出も好きだった。
前回は、新聞紙を、映像の幕に使ってたね。川村さん、新聞紙を使うの好きなのかな?安いから・・・じゃないよね(^_^;)。

父と息子の絡みと書いたが(と言うか、そうとしか表現出来ないのだが)、実際の演出は、父が息子の頭の上(横向き)に頭を置き、息子の手を取り、ずっと手を絡ませあっている・・と言うモノなのだが、やたらのAVを見るより、よっぽどエロくて、しかも美しくて、切ないって言うね。
息子が切なそうな苦悩のような、法悦のような快感のような凄く複雑な表情をし、父親は喘ぎ音を上げる。そう、手塚さん、ちゃんと喘ぎ声を立てていた。色っぽかったです。それを最前列の目の前で見ました。眼福!(笑)

この息子。「妻が不貞を働いたのか・・・」と言う父親の台詞があるのだが、父も母親も確かに金髪じゃないんだよ。そこも謎と言えば謎。本当の父の息子なのかあるいは・・・。

息子を愛するが故に、縛ろうとし、自分のようになって欲しい(と言うか、自分が息子と一体になりたい・・と言う願望なんだろう)と思い、また、自分が息子になりたいと願う。
しかし、息子は個だから、人格もある。自分の思い通りには運ばない。彼女も出来る。それに嫉妬し、若さを憎み、それでも息子を愛している父。
何か、切ないね・・・。
息子も、自分を支配しようとする父親に嫌悪はある。オイディプスの影と重なるように、何処かに父を殺したい(つまりはコレって、父親を越えたいって言う、思春期特有の気持ちでもあると思うんだけどね)と言う気持ちもある。だから、父親に反発して、勉強しなかったり、彼女をつくったりするけれど、それでも、何処かで父を愛し尊敬はしている。
それでも、どうしたって気持ちはすれ違う。おそらく、それは、お互い“自分しか見ていない”からなのだケド。

オナニーシーン・・自慰行為のシーンもあるケド、ズボン下して、ちゃんとパンツに手を入れるんだよ、手塚さん。でも、道具立てが美しいので、嫌悪感はないです。エロさもあまりない。
若さや無垢さが憎い父親。それと同じくらい、若さや無垢さを賛美してやまないんだろうね。二律背反だね。

自慰行為のシーンって、パゾは、映画でも使っているよね?この人にとって、自慰行為って、性的リビドーの解放って言うのも勿論あるんだろうけど、もっと鬱屈した内面の解放って思いがあるのかな?って思う。
例えば、パゾリーニは同性愛者だけれど、同性愛者だから受ける差別・・みたいなモノもあるじゃない。そういうモノへの物理的開放みたいなモノが自慰行為と言う表現になるのかな?とも思うんだケド、どうだろう?自分から何かを解放する際に、自慰行為・・オナニーと言う表現方法を取るような気がする。
今回の父親の場合は、息子への葛藤の解放・・でしょうかね。

舞台が、2段くらいの階段になっているのだが、終盤、手塚氏が何回もその階段を転がり落ちる。よじ登っては転がり落ちる。舞台ギリギリまで転がるので(片手は舞台から出る)、最初「舞台から落ちるんじゃないか?」と吃驚した。コレも何か葛藤の表現かも知れないのだが、単純に「手塚さん50歳だよ?50歳で、コレやる体力ってスゲエよ・・・」って思った(笑)。

最後、息子と一緒に十字架にかかる父。父は息子と一心同体になれたのだろうか?

何故か、大槻ケンヂの歌を思い出す。求め合う男女が、「溶けて一緒になってしまえたら」と唄う歌。♪あぁ、はんだのように一緒にとけてしまいたい・・・

そんなコトを思いました。
でも、この芝居のタイトル『騙り』。上手く、パゾリーニに騙られたのかも知れない。

あと、久々に「演劇らしい演劇を見たな〜」って思った。演劇って良いね。

前回同様、パゾリーニの詩集を売っていたが、4500円は出せないよね(^_^;)。
あと。パゾの研究本があって、1800円で、こっちは買おうかギリギリまで悩んだ。結果、買わなかったケド、1800円なら買っても良かったよなぁ〜。大島渚氏や、四方田犬彦氏のインタビューとかあって面白そうだったんだケド・・・。大島渚氏って、パゾリーニに会ったコトがあるんですって!!

次回のパゾリーニは10月13日〜21日で、テアトルBONBONで、『文体の獣』と言うのをやるそうな。少年が様々な事象と出会って詩人になっていく物語で、パゾの自伝だってサ。面白そう。
また、手塚さん出るかしら??

画像は、騙りのフライヤーなのだが、イラストが宇野氏が描いた手塚氏で美しい。
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