年があらたまりまして、NHK大阪放送局の朝の連続ドラマ小説『カーネーション』も後半を迎えています。
脚本を担当しているのは渡辺あやという人でして、2009年には『火の魚』の脚本で芸術祭大賞、2010年には『火の魚』と『その街のこども』で放送文化基金賞脚本賞を受賞しています。
作品についても、『火の魚』はモンテカルロ・テレビ祭・ゴールドニンフ賞を受賞し、『その街のこども』はNHK製作のドラマとしては異例の全国で劇場公開となりました。
錚々たる経歴の持ち主といえますが、手がけているのは佳作の小品という趣であり、むしろ、NHKが賞を狙いにいくドラマを作るときに起用する人という印象でした。
それが連ドラという圧倒的に執筆量を要するところへ投入されてきたわけでして、これをネットで読んだときにはいささか意外な印象を受けました。
さらにヒロインが尾野真千子、サブヒロインが栗山千明という手堅くはあるけれど、新鮮さは微塵もないキャストを知るにつけ、BKの本気を感じずにはいられませんでした。
お芝居の世界でエチュードというと、与えられたテーマについて俳優が即興で演じてみせることをいいます。演技のレッスンに取り入れられたり、役をつかむために稽古の初期の段階で行われたりするそうです。
ここで空腹というお題をもらって、「あー、おなかがすいたなあ」と言ってしまう人は、浦島太郎で昆布とか、西部劇でサボテンの役しかまわってこないはずです。それは演技ではなくて、口で説明しているにすぎないからです。
観客は説明されるとそれを理解はしますが、そこから先に想像をふくらませることは逆にできなくなってしまいます。空腹の人をみて、お金がないのか、寝坊して食事をとらずに出てきたのかなと考えたり、自分までお腹がへってきたような気分になったり、バッグの中のお菓子を渡したら食べてくれるかなと思ったりしなくなります。
そうやって、見ている人を引きこんでいろんなことを感じさせるには、とにかくひもじくてつらそうな表情をして泣いてみせたり、食堂のサンプルを食い入るように眺めたりする必要があるわけです。
そして、この受け手のなかで喚起されて生まれてくる感情こそが、演劇に限らず、音楽や絵画や小説など、あらゆるジャンルのアートに共通する本質ではないでしょうか。
しかしながら、テレビというのは、とにかくわかりやすさが求められるところです。製作サイドも「わからない」と言われることをとても怖れているようです。
結果として、どこで笑ったり泣いたりするのか、テロップやSEなどでわざわざ教えてくれるバラエティやドラマが増えましたし、それがないと安心して見ることができないという視聴者も少なからずいるみたいです。
誤解してもらいたくないのですけれども、個人的にはそれが絶対に悪いと思っているわけではありません。テレビというのは勢いのメディアでもあるでしょうから、わざわざ懇切丁寧に解説するより、言葉でぱっと説明してすぐ本題に入ったほうがいいこともあるでしょう。そこは、ケース・バイ・ケースなはずです。
とはいえ、現状は説明過多が主流であるにもかかわらず、『カーネーション』はあえて古いスタイルを目指しているように見えました。そのことに期待と危惧を両方抱いて見始めましたが、たしかに昔ながら引きの描写を重ねつつ、ヒロインのまさに岸和田のおかん的威勢のよさもコミカルにブレンドされ、楽しいドラマになっていると思います。たまに聞く評判も悪くはないみたいです。
後半もこのまま、楽しみながらじっくりみることができればいいなと思っています。
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