mixiユーザー(id:809122)

2011年03月09日13:02

8 view

非モテソラノート騒動にみる畏れ知らず

非モテソラノート事件とはなんぞや。
ま、調べるほどのこともないくだらない騒動だが、これを読めばほぼわかる。
http://goo.gl/36t4r

\(フラン)/ 「取材対象に敬意を払えよ」
\(めがね王)/「チョーウケルンデスケドwバカ、ウ○コ、主婦ww2ちゃんこそ至上」
\(そらの)/ 「めがねちゃ〜ん揉めてんだって?あたいんとこのUST番組で二人のケンカ中継しようず」
          〜〜UST番組内で二人キャッキャウフフ〜〜
\(フラン)/ 「おめえらそろってdisってんのかどんな糞会社だよマジギレだわこれ」
\(めがね王)/「やっべーまじやっべーとんずらお先に」
\(そらの)/ 「いやこれみんなにはオープンな場で決着つけたほうがおもすれくね?
         そんなに言うなら反省してまーす。」
\(フラン)/ 「おい責任者でてこいや」
\(そらの)/ 「UST番組しばらくオヤスミしてHP上で謝りました」」
\(フラン)/ 「頼んでもないものを自粛されて逆に恐ろしいわお伺いたてんかい」
\(そらの)/ 「サーセンもうしませんから」
\(フラン)/ 「おい電話したら訴えるなら訴えろって言われたんだがそれが
         オマエラの最終判断でいいんだな?」
\(そらの)/ 「サーセンもうしませんから」

\(フラン)/ 「はい?」
\(トミモト)/「そらのがぶっ壊れたので私がお相手します」


こんな話。
え?わからない?

この辺を読めばもうちょっと正確にわかるかも。他にもググればいろいろまとめサイトもある。ま、わかんなくてもいいような話だけども。
http://goo.gl/ycaKK


で、そもそもの発端はNZ地震でフジテレビ「とくダネ!」のインタビューがひどかったという巷の批判に対して「そんなことはない。取材としては常識内」とした記者のこの記事。
http://goo.gl/Nc1dK
フランチェス子氏がその欺瞞的なプロ意識に「人権意識が著しく低い国では人権侵害的な行為や質問こそプロ意識のあらわれとみなされるわけですねわかります。」と皮肉をツィートしたのが事の起こり。
その時のフランチェス子氏にはこの人のような意識が働いていたと推察できる。
http://goo.gl/6pB3u
>アルゼンチンのTV番組である事件の犯人(とされている人物)を「セニョール」と呼び「回答を誘導したり名誉を傷つけるおそれがあるなど、質問が不適切であると思われたらすぐ言ってください、エントレビスタ(インタビュー)はそこで終わらせます」と、聞くアナウンサーを見たことがある。多くの日本人が発展途上国の詰め合わせだと思っているようなラテンアメリカの国の報道ですら、その程度の良識は弁えている。

そうした配慮をフランチェス子氏は「敬意」と表現したわけだが、どうも僕はこの言葉の選択が間違っているような気がする。
インタビュアーが取材対象に対し払うべきなのは「敬意」ではなく「畏れ」ではないかと思うのだ。
アルゼンチンのインタビュアーは犯人に敬意を表しているんじゃなく、訴訟リスクを考えルーティン通りの手順でやっているに過ぎないんじゃないか。アメリカでの逮捕時の権利の言い伝えみたいに。

それは畏れからくる防衛策だ。
そういう畏れという感情は対象が被害者だろうと加害者だろうと同等に払われるものだ。

取材によって被害者に対しセカンドレイプしてしまうことへの畏れ。
加害者への取材により推定無罪の犯人を追い詰めたり予断を与えてしまうことへの畏れ、そして逆切れで自分が襲われるかもしれない(訴訟を起こされるかもしれない)直截的な畏れ。

それは人間が別個の存在である人間に対して本源的に持つ/持たなければならない感情だ。(相手の気持ちは推察することしかできないのだから)
そういう畏れを持たないことは決して勇気などではない。


しかし、自分が対象に対して優位にあると、慢心して忘れてしまいがちになる感情でもある。

自分の方が年上で、取材相手が下手に出て、かつフランクに答えてくれていたらつい油断してしまうような、自分の方が圧倒的な社会正義の側にあり、傍若無人な加害者に対して持つ必要なんてないと思えてしまうような。



つまらないツィッター上の炎上に過ぎないこの騒動が面白く感じられるのは、話が展開してどんどんオオゴトになっていくその流れにある。

フランチェス子氏はソラノートに対し謝罪や賠償まで求めているが、果たしてソラノートの配信映像がどの程度フランチェス子氏の名誉を毀損したのか。はっきり言って小さなビオトープ(by佐々木俊尚)内の戯言に過ぎず、全世界に配信されるウェブで取り返しの付かない侮辱を伝搬された、というようなものではない。なにかネット世界に対し、マスメディア的な考え方に毒されて捉えている気がする。更新積層されていく情報の中で、どうせ半年もしたら誰の口の端にも登らなくなるって。

そうした展開の中で僕が興味深く感じるのは、最初どんな相手でも対象への「敬意」を払うべきだと言っていたフランチェス子氏自身が、自分が被害者の立場に確定したことで、まったく加害者に対して「敬意」を払っているように見えなくなっていくことだ。
いや、敬意は払っていると言うかもしれないが、確実に相手への「畏れ」は無くなっている。
それに対し、はじめは横柄で礼儀知らずなめがね王氏やそらの氏の方が、なめていた相手が本気で怒っているとわかるや、畏れをなして平身低頭していくさまだ。(最初からそういう気持ちでコメントすればいいものを)

ミイラ取りがミイラとでも言おうか。逆転現象と言おうか。マンガみたいな展開。

なるほどこういうふうにして取材者は自らの正義を振りかざして対象を蹂躙するようになるのかと、その鳥羽口を実地サンプルを見せられているような気がしたのでした。



2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する