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2010年08月15日21:06

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アリエッティの失敗

連れ合いのおごりで『借りぐらしのアリエッティ』を見に行った。
あまり期待はしていなかったが、そのまま思った通りの作品だったというのが正直なところだ。
先日NHKで創作裏舞台のドキュメントをやっていて、それを見た限りで、きっとこんな感じだろうなと思ったレベル、内容だった。

またぞろ、2年後くらいから日テレ系で繰り返し放送されるだろうから、それで見れば十分という感じ。
おごってもらっておいて、連れ合いにそんなことは言えないが、彼女もどうやら同じ感想を持ったみたいだ。
さらに言うと、映画館にいた人たちのほとんどがそうだったようで、映画が終わった後、拍子抜けしてしまったみたいにパラパラと帰路に着く様子は、まるで囚人の行進のように力なく、がっかり感が横溢していた。

いや、がっかりというほど、皆期待もしていなかっただろう。
『ハウルの動く城』、『崖の上のポニョ』と、宮崎駿御大でもあの程度なのだから、ジブリの作品で目の醒めるような名作が生まれるはずもない。別監督ものの『耳をかたむけて』や『猫の恩返し』、『ゲド戦記』よりか、いくらか見れるものなら御の字という程度に思っていたのではないかと思う。

ジブリはもはやブランドであり、中身の問題ではないのだ。見たというために見るもので、面白いから見るものではない。そして見たからには、それについて何か語らなければならない。それはネタバレであろうと批判であろうと構わないのだ。ブランドは実体ではなくそれについての言説が積層されて作られるものだから。

ということで、僕も書こうと思う。ネタバレだから見てない人は読まない方がいいよとは言わない。
ネタバレしてもそうでなくても、それで面白くなったりつまらなくなったりするような作品でもないから。


『借りぐらしのアリエッティ』の監督はジブリ若手(でも三十後半)アニメーター米原宏昌だが、脚本は重鎮宮崎駿で、その企画も宮崎と高畑勲によって四十年前にたてられたものらしい。言わばこれは宮崎の作品なのだ。本来なら監督宮崎駿、制作監督米原宏昌とすればよかったのに、ジブリの世代交代のために監督を経験させることを優先するあまり、作品は初歩的なところで失敗してしまった。

その失敗とは、作品が監督の作品になっていないということだ。
基本的に米原は宮崎の脚本を理解していない。この物語を自分のものにしていないのだ。そのため正しくドラマツルギーを発揮しきれていない。(ドラマツルギー自体が確立してないのかもしれないが)

具体的に説明しよう。


この作品には四つの「借りぐらし」が登場する。
一つは人間社会に借りぐらしする小人たち。一つは親戚の家に預けられ借り(仮)ぐらしする少年、翔。住み込み家政婦として主人の家を仮の住まいとするハル。そしてそれら全て、自然の恩恵を受けながら生きる生物みんなが、地球の中の借りぐらし仲間なのだ。これら四様の借りぐらしの関係性がこの作品の構造となっている。

この地球の借りぐらしという思想は、いかにも宮崎らしいテーマだ。人間にバレないように、つまり人間の生活を崩さないようにつつましく生きる小人たちを、この地球に借りぐらししている人類に重ねて、一つの理想形を示そうとしているのは明らかだ。
そして、もう一方の借りぐらしハルは、そうではない、傍若無人に地球の支配者気取りで環境破壊する現状の人類の陰画として設定されている。
ハルは自分の都合で主人(筋)である翔を部屋に閉じ込めたり、主人にことわりもなしにねずみ駆除業者を呼んだりして、自分が家の支配者であるかのように振舞う。業者から「奥さん」と呼ばれても訂正もしない厚顔さもみせる。
ハルは理想に対するアンチとして設定された重要なトリックスターなわけだ。
だから当然、ハルも同じように「借りぐらし」をしているという設定は、比較のための欠くべからざる条件なのだ。

だが、映像ではそこがちゃんと押さえられていなかった。
翔が家に訪れる最初のシーンで、ハルの車が庭先で翔の乗る車の進路を塞ぐという顛末があるのだが、それによって、ハルがあたかも通いの家政婦であるという印象を見る者に与えてしまっている。
あそこで翔とアリエッティの二人だけの出会いを演出したかった為にそうしたのはわかるが、であれば、その後で別に、ハルが住み込みであることを印象づける何らかのシーンを入れなければならなかった。(例えばハルの部屋を見せるとか、夜中の寝間着姿のハルを描写するとか)

それがなかったのは、監督の米原が、ハルも小人や翔同様借りぐらしなのだとする必然性に気づいていなかったからだと思われる。住み込みでも通いでもどっちでもいいと思っていたのではないだろうか。狂言回しとしての役割だけに気を取られ、脚本家の隠された意図、つまり「この姿こそが我々人類の地球における現実なのだ」という隠喩を汲み取っていないのだ。


さて、生けるものすべて地球の借りぐらしというのは設定上の主題だが、ストーリー上の主題は別にある。
それは「成長と自立」だ。これもまた宮崎らしいというか、定番の主題と言える。
ところがこれを、どうも米原は「生きる勇気」と取り違えてしまっているようだ。

無論それをテーマにしても一向にかまわない。監督なんだからそうしたければそれで物語全体を組み立てればいいのだ。脚本もそれに合わせてつくり直させればいい。
ところが、おそらくは脚本ありきで、そこに無理やり「生きる勇気」を組み込んでしまったものだから、どっちつかずで締りの悪い物語になってしまった。

はじめて出会った小人を前に「君たちは消え行く種族だ」と熱弁を振るう翔の姿は、とても違和感がある。それが自分の手術の不安から来るものだとしても不自然だ。なぜなら、そう思う根拠がないからだ。
これは、はかない命も懸命に生きているんだから僕も生き抜こうと、翔が決意するラストに繋がるわけだが、翔の心の動きとしてはあまりに単純で無理やり過ぎる。

普通なら、自分が生まれるずっと以前から、人知れず人間世界に借りぐらししてきた小人たちに、逆にゴキブリのようなバイタリティを感じとりそうなものだ。そんな彼らに比べ自分の明日をも知れぬカゲロウのような生を悲観する、となるのが自然な感情だろう。
当然彼ら種族を消え行く種族だなどと断ずることなどせず、その後、弱々しい自分でも、何か彼ら小人たちに貢献することが出来るかも知れないと考え、そして実際に役に立ったということを喜びとして、自分の生に対しても勇気を得る。というのが、「生きる勇気」をテーマにした場合の通常の展開となるはずではないだろうか。

しかし、脚本の展開は逆で、翔に見つかったことで小人たちは大迷惑を被ることになり、翔のやったことはすべて裏目に出て、ついには明日をも知れぬ旅立ちへと追いやってしまう。
アリエッティは健気に、それでも頑張ると言うわけだが、その言葉を聞いて翔が、うん、君たちを見て勇気をもらったよ、僕も頑張る、となるのはどう贔屓目に見たって脳天気すぎの無理筋だろう。

宮崎の原案となる脚本はそんなこと(生きる勇気)を主題にしていないはずだ。「消え行く云々」というセリフもなかったんではないだろうか。
宮崎はおそらく、小人たちの借りぐらしを、今度は翔の生きざまの陰画として据えて、そこから旅立つ姿をもって翔の自立を促すとしたかったのだと思う。

アリエッティたちの借りぐらしは、いってみれば人間の庇護、影響のもとの生活と言える。親のもとで生きる子どもと一緒だ。
アリエッティ一家はそこに住まう人間世界から自立出来ずに生きている。その世界しかしらないんだから当然のことだ。

アリエッティの母ホミリーは、こんなキッチンを夢見てたのと、翔がプレゼントしたドールハウスを喜ぶが、それを理想としたのは、彼女がかつてそのドールハウスを見たか聞いたかしたからに違いない。
彼女はカントリー調の文化的な生活を好んでいるようだが、それは取りも直さず、宿主たる人間の生活がそうだからだ。彼女の世界のすべてがそこしかないのだから、そうなるのは当然なのだ。

ホミリーはしかし、なぜか海の見える暮らしを夢見ていたりする。
海の見えない屋敷でどうしてそう思うようになったのか。それをこの作品では示されていない。
おそらくこれは、米原監督の脚本の読み込み不足のせいではないかと思われる。

作中に一箇所、背景として壁に架けられた絵が見られる。
省略された描き方で判然としないが、それはどうも浜辺にたむろする貴族女性の姿のように見えたところからして、おそらくそれはブーダンの絵を元にしているのではないかと思う。(しかし海そのものは描かれていなかった)http://goo.gl/BcLb
ブーダンは「空の王者」と呼ばれ、モネにも影響を与えた画家だが、見ての通り海景画(西洋貴族的な憧れのリゾートとしての海)を得意とする画家。

思うに宮崎の原案の脚注には「壁にブーダンの絵」とだけあったのではないだろうか。
米原はその指し示す意味を汲み取れず、背景師にそのままブーダンぽい絵を入れといてと指示しただけだったのではないだろうか。
それは実はホミリーのバックボーンを示すだけでなく(つまりその絵を見たことにより、人間を踏襲して海の見える生活にあこがれを持ったということ)、小人たちが人間世界から自由でない、自立していないということを示す重要なポイントで、決しておろそかにしてはいけない点だったのだ。しかし、彼はその重要性に思いが至らなかったのだろう。それを観客があっさりと見過ごしてしまうような扱いとしてしまった。

ここでも彼が脚本を自分のものにしていないことがわかる。


アリエッティ一家は外の世界へ出かけることを「借り」に行くと表現していたが、別の小人スピラーのそれは明らかに「狩り」に行くと発音されていた。スピラーの身につけるものも食べるものも人間から借りてきたものではない。(最後船がわりとするものは借り物だったが)つまりスピラーはアリエッティ一家と違い人間から自立している。

アリエッティ一家が屋敷を離れスピラーと行動を共にするというのはつまり、人間の庇護や影響から離脱し、自分たちだけで生きていくという自立の意思を示しているわけだが、その点の表明もこの作品の表現では弱々しく、ただ引越しする程度のニュアンスにとどまってしまっている。

そうだからこそ、翔もそれを見て、自らのどこかで親を頼り思慕する気持ちがあることを振りきり、一人自分の病と向きあう勇気を得ることができるのであって、この点はこの物語の中で重要なキーポイントなわけだが、残念ながらそれが十分押さえられてはいなかった。


この作品の脚本家は宮崎以外にもう一人いる。徳間書店編集者の丹羽圭子という人だ。
あの駄作『ゲド戦記』でも共同脚本として名を連ねている。
おそらく彼女は編集者としての仕事を全うしたのだろう。つまり作家と制作の調整役だ。原作者としての宮崎駿と監督としての米原宏昌の主張を、本質を理解することなくうまい具合にまとめてしまったのだと思う。それが最低の結果を生んでしまうことを思いもせずに。

脚本と監督はもっとぶつかり合わなければならなかったのだと思う。
監督は脚本家に名を連ねるくらい物語にコミットすべきなのだ。ハリウッド方式でもない限り。

宮崎は次代の育成のために自分をずいぶん抑えたようだが、根本のところで勘違いしているのは、次代のジブリに必要なのは、ポスト宮崎ではなくポスト高畑なのだと言う点ではないだろうか。
絵の描ける奴はいくらでもいるだろうが、話を作れる人材がジブリにはいないように思う。
いや、話は原作者任せでいい。それをアニメ作品にするだけの読解力とドラマツルギーを身につけた人材こそが必要なのだ。

外部の編集者なんかに脚本を任せないで、何故自社で脚本家を養成しないんだろう。
絵や世界観だけ提出すればそれで十分作品になると思っているのだろうか。(どうもそう思っている気配があるが)


ジブリというブランドがグッチのようにならないことを祈りたい。
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