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2010年04月28日23:49

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本当はみんなどうでもいいと思っている自由について

 自由というものがよくわかりません。
 自由というものは尊いそうですが、だったらやりたい放題が許されるかというとそうではなくて、世の中はやってはいけないことだらけなわけです。よく聞かされる説明は、「自由は尊いけれど、みんなが好き勝手に振る舞ったら収拾がつかなくなるから、一定の制約が設けられている」というようなことだったりします。これがよくわからない話で、そうだとしても実際にそちらの方が優先されている以上、自由よりもそれら諸々の制約の方が強いということになると思います。
 そんな、たとえば世間体がごときものに掣肘される自由が大した存在なはずがありません。自由、敗れたりといったところです。ダメダメですな、自由。
 思い余って、ネットの辞書で調べてしまいました。


goo辞書の国語辞典
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/88892/m0u/%E8%87%AA%E7%94%B1/
(1)〔freedom; liberty〕他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる。

(ア)哲学的な意味では、自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること。外的自然からの自由、内的自然(理性や意志以外の要因)からの自由、他人による強制からの自由に分かれる。意志の自由とほぼ同義。

(イ)社会学的な意味では、社会集団が個人の自律的な判断・決定能力を発展させる構造的条件を備えていること。基本的人権のほか価値・規範体系の整備なども含む。

「‐な社会の実現」

(ウ)政治的・歴史的には、時代によって異なる内容をもつ。古代ギリシャでは奴隷などと区別されたポリス市民固有の属性、すなわちすぐれたものへの洞察力を意味したが、中世ヨーロッパでは身分的特権の別名であった。近代のリベラルな自由概念は一七世紀の宗教戦争以来成立し、市民革命を経て強化・確立され、宗教的自由から思想・信条の自由が、さらにそこから言論・出版の自由が要請された。この過程で、権力と対立しこれを制約する自由という視点も出てくる。マルクス主義的には、社会全体が解放され、人格の自律が真に達成されることが重要視される。

(2)物事が自分の思うままになるさま。

「三か国語を‐にあやつる」
「‐がきく」
「‐になる時間」
「船の進退‐ならねば/近世紀聞(延房)」

(3)わがまま。気まま。

「よろづ‐にして、大方、人に従ふといふ事なし/徒然 60」


 徒然草にあるというぐらいですから、(3) が昔からの用法で、(1)が freedom や liberty の訳語として割り当てられた用法みたいです。でもって、これは完全に誤訳だと思います。
 (1)の用法には独立した個人として社会と関わっていくための市民権みたいなものであって、それはみずから獲得して守るものだというニュアンスがふくんでいるのではないでしょうか。それは、(3)には絶対にないニュアンスで、これを同じ言葉で使い分けるとなれば、なまじ似ているだけに混乱はまぬがれないところです。よく今までやってきたなと思うのですが、実際にはろくすっぽちゃんと使ってこなかったから問題が表面化しなかっただけではないでしょうか。

 スキャンダルを起こした芸能人や政治家、事件の被疑者やその親族を追いかけまわして、マスコミは報道の自由や国民の知る権利とかのたまいます。たしかにどんなに下らなくて愚劣な言説でも守られるのが言論の自由ですから、それ自体が間違いとはいえません。しかし、不倫騒動を起こしたタレントに追いすがるレポーターとそれをひきはがそうとする事務所の人間の関係は、部数や視聴率を上げたいとメディアとタレントの価値を落としたくない事務所による経済的な抗争であって、別に自由なんか関係ありません。
 政治家を追いかける時にはそれこそ声高に報道の自由を叫びますが、「せっかくのおいしいネタなんだから、逃げ隠れするな」ということであって、こっちもあまり自由とは関係あるようには見えません。

 おそらく、自由ということと真摯に向き合おうとするならば、その言葉が使われるたびにそれが正しい使い方なのか、きちんと吟味する必要があるのだと思います。しかし、実際には水戸黄門の印籠のように使う方は振りかざしているだけだし、使われた方はだいたい舌打ちしながら恐れ入っているだけです。つまり、哲学と同じように自由という言葉ももっぱら相手を威嚇するために使われているといっていいでしょう。
 やりたいことがあって、そこに邪魔が入ると、開かない扉の前で「開けゴマ」と言ってみるように、「自由の侵害だ」と叫んでみる。その場合の自由が(1)の意味か、(3)の意味なのかは言う方も言われた方もさほど気にとめないというのが、日常の風景であるように思われます。

 そもそもが誤訳なので、きちんと使い分けるのはけっこう大変だと思います。
 (1)の意味はユダヤ教をベースにした一神教的世界観と家畜の飼育が一般的だった社会の奴隷制に根っこがあるような気がしています。どちらも日本人には馴染みがありませんから、つきつめると理解できない概念ではないかと思います。
 それでもなんとかしようとするなら、日本的な文脈のなかでなにが自由を阻んでいるのか自分でみつけて、自分で対処するということになるはずです。本当はえらい学者がとっくの昔に結論を出しているのでしょうけれど、こういうことは自分で考えることに意味があるでしょうから。
 もっとも、孔子が「学びて思はざれば則ち罔く、思ひて学ばざれば則ち殆し」と言っているくらいなので、本も読まないといけません。というわけで、読む本を探すところからとりかからないといけないわけですけど、そうまでしないといけないぐらいだったら、やっぱり自由なんてどうでもいいや。

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