mixiユーザー(id:809122)

2010年02月09日15:46

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ノート

コクヨが開発した「東大生ノート」がヒットしているらしい。

http://blog.goo.ne.jp/kusa1224/e/4b18d0c63c6645d01beb472532dc4724

書き出しが揃えられるように罫線にドットが付いているだけのものだが、コロンブスの卵的な効果をあげているわけだ。

ここで重要になっているのは「綺麗にノートをとる」ということであり、それが想定しているのは「後で再びノートを見る」という行為だ。
すると、あとでも自分で読めるようなノートの取り方を意識するようになり、ノートを漫然ととることなく、対象の理解が整理される効果があるというわけだ。

ドットはその「綺麗にノートをとる」というきっかけになっている。
ノートを美しくとれることで頭が良くなるのか、頭がいいからノートが綺麗なのかは、この場合問うこともないだろう。


しかし、このヒットはそう長く続くものでもあるまい。
ノートをとるということ自体が時代遅れになっていく流れにあるからだ。
ペンや鉛筆というデバイスが使われなくなる中で、当然ノートも消えて行く。

近い将来学生はiPadのようなデバイスを持って講義に出て、各席につながれたネットワーク回線にそれをつなぎ、黒板の代わりとなった大型モニターに映し出される内容をそのまま入力する。講師の話を録音、その音声もテキスト変換されて入力される。そんな時代が来るのだろう。
現在のシラバスはより詳細になって予習復習ができ、なんとなればそれを取り込めば学校で講義を受ける必要すらなくなるところまで行き着くかもしれない。

それを学生の怠慢と批判するのは当たらない。講義に出たりノートをとるのが学生の仕事ではなく、知識を得て教養を身につけるのが目的なのだから、そのための方法は自由だからだ。
要は頭に入っていればいいのだ。
自分で聞かず自分で書かなくて頭に入るわけがないと思うのは、そういうやり方しか知らなかった我々旧世代の思考だ。


記憶は多様な経験を関連付けることで強く定着する。
ノートをとるというのは、目で見たもの耳で聞いたものを言葉に変換し、それを手で書くという行為によって複合的経験とすることで身につくようになる働きがある。
そしてそれを後で再び見るという経験で補強される。

ならば、それと同じようなことをデジタルデバイスを使う際にも組み込めばいいのだ。

講義だけでなくその内容に関連する資料もネットによって取り寄せ、それらのコンテンツを自分なりに編集して記録するという行為が、書くという経験と同じ効果をあげるようになるのではないだろうか。
テキストを統一的な文章に書き直したり、サウンドをつけたり画面遷移を工夫したりすることで、単にノートをとる以上の複合的経験になる。

そしてそこで重要になるのは「美しく構成する」という意識だ。
「綺麗にノートをとる」のと同じように、デジタルコンテンツを「美しく構成する」ためには対象の理解が前提になる。
そしてプレゼンテーション能力が重要になる。
なぜなら、後で自分が見るというのは「他者」が見るということだからだ。他人に対する優れたプレゼンテーションでなければ「美しい構成」とは言えない。


その先には、人が見て優れたドキュメントを作れることが「勉強が出来る」ことの証明になる時代がくると予想出来るのではないだろうか。

デジタルデータでいかに行き届いた美しいドキュメントを作れるか。それが勉学の評価基準になるようになるのだ。
それは、現在の暗記力を試すだけの試験より、より実際的と言えるかもしれない。

試験となれば、確かにそのドキュメントをその人が作ったかという証明が必要になるが、そういう検証はそれこそプログラム的に解決されるだろう。履歴の解析とかのアルゴリズムで。


まずはAcrobatを使いこなすことが出来るようになるのがいいかもしれない。
http://www.adobe.com/jp/joc/a9guide/index.html
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