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2009年07月23日16:34

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大きな物語と陰謀脳

この前の日記で「後世に残すべきマンガ」には挙げなかったが、僕個人としては、(以前も書いたかもしれないが)星野之宣の『2001夜物語』は日本のマンガ史上十指に入れていいだろう名作だと思っている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/2001%E5%A4%9C%E7%89%A9%E8%AA%9E

とは言え、時代遅れのマンガという手法の既に終わってしまったSFというジャンルなわけで、本当は後世に残す必要なんてまったく無くて、今これを現在の価値観でちゃんと読み解いていくのが本当の名作に対する正しいアプローチなのだろう。現代のために描かれた作品なのだから。(でも、発表されてからは既に四半世紀が過ぎているのだが)


で、この作品の素晴らしいと思う点は、なんと言ってもそのテーマがSFを舞台にSF的世界の終焉を描いていることだ。正確には、宇宙に乗り出した「人類」が宇宙に絶望して撤退していくまでの「物語」を描いているフィクションということ。
この宇宙に乗り出していくという行為が、そもそも意思や目的が与えられたひとつの「大きな物語」なわけだ。

「大きな物語」とはリオタールの使ったポストモダンの用語で、簡単に言えば夢や理想を持って目的や解決に向かっていく、つまり始まりと終わりのあるお話のこと。
その中でも、愛によって原罪からの救済を目指すキリスト教の物語とか、蒙昧の闇に理知の光を照らして人間を解放しようとする啓蒙主義の物語とか、労働を社会化することで人民を搾取や疎外から救出しようとする社会主義の物語とかといった、人類規模のやつのことだ。
そうした架空の大きな括りで物事に意味を与えることが「大きな物語」の特徴で、実際には一人一人の個が意味も無く蠢いているだけの救いのない実世界を、そのまま受け入れることができない夢想家の幻想に過ぎないと喝破したのがポストモダンの言う「大きな物語の終焉」ということだろう。

『2001夜物語』に描かれる宇宙を目指すということも、同じ「大きな物語」と言える。(昨日の日記で書いたように)SFらしくその主人公は「人間」という個ではなく「人類」という種だ。人類は自分たちが手に入れたテクノロジーを使いたいという欲求で宇宙に乗り出すのだが、とかくそこに意味を持たせたいと願わずにはいられない。「物語」を求めるのだ。
そこで後付のようにその目的を地球外知的文明との遭遇に求めるようになる。
しかし、そこで出会うものは人智を超えた「無意味」な現象ばかりで、少しも「大きな物語」に貢献してくれないのだった。

短編集である『2001夜物語』で白眉と言えるのは、そのクライマックスとしての『緑の星のオデッセイ』だ。
宇宙船らしきものが発射された星を探索すると、そこを支配していたのは高度に発達した植物で、彼らが文明ではなくただの本能で播種している行為が宇宙船の発射だったというもの。
文明ではないそこには、人類が求める「意味」などなかった。目的を持った行為ではなかったのだ。

子孫存続という目的を持っている・・・。いや、何のために子孫を存続させるのか。そこに「意志」があってこそ、人類の求めた「目的」と呼べるものであり「大きな物語」なのだ。

自分たちが高度に文明を発達させ、こうして宇宙に乗り出して見出したものは、そんな文明に「意味」は無いのだという皮肉な結果だったと言える。
自分たちだって植物のように、ただ手に入れたテクノロジーを使いたいという「反応」だけで行動をおこし、そんな本能的な行動が現象を積み上げただけの結果が文明と呼ばれるものだった。
つまり「大きな物語」は存在しないということを突きつけられるために宇宙に進出した、その絶望の物語がこの『2001夜物語』なのだ。

それはそのまま「SF」自体の否定とも言える。
SFはテクノロジーによって導き出される世界に何かの意味を付与することで作られる物語のことだ。
意味を与えるということは、与える側の「人間」を上位に位置づける行為だ。ここにあるのは「人間中心主義」「人間万能主義」なのだ。
「人間」とは「意志ある存在」のことだ。宇宙のすべての事象を意志ある人間の言葉に置き換えること、それがすなわち「SF」だった。
「進化」も「ビッグバン」も「異星人」も、人間にとって何か意味のあるもので、大きな物語の中に組み込まれているものなのだと読み解いていくことが「SF」だったのだ。

『2001夜物語』はそんなSF世界が無意味の裡に終息していく様を描いているのだ。SFという手法を用いて。



近頃「陰謀脳」という言葉が流行っている。
不可解な出来事や大きな事件が、すべて隠れたある意志のもと画策されたものとしたがる短絡思考の頭を言う。(思考方法は短絡的だが、その知識と検証能力は異様に高かったりする)

911テロがアメリカ政府の策謀だとか、太平洋戦争はコミンテルンの策略で始まったとか、世界はフリーメイソンやイルミナティが支配しているとか、ビルダーバーグ会議で世界の秩序が決定されているとか、オウム事件だって実は影の首謀者が別にいるだとか。
とにかく何でも陰謀が隠されていると思うのだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E8%AC%80%E8%AB%96%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7


そういう陰謀脳は、不可解な出来事に意味を与えたい、解明したいという欲求を持ち、何にでも理由付けをする。そして自分は「わかっている」という優位に立ちたいと願望する。 自分だけはそうした陰謀に組み敷かれてはいないと思いたがるのだ。
その様は暗闇を一人歩いている子供が「全然怖くなんかないんだぞ!そこにオバケがいることは知ってるんだからな。だから出てきても無駄だぞ!」と大声を張り上げて怖がっている姿に似ている。




自分たちの社会が陰謀によって動かされているものだと悲観することは、実は楽観論者の思考と言える。
誰かが操っていると考えるということは、人間の意志が世界を動かせると考えるとてもポジティブな姿勢だからだ。


それは世界には意味があると思いたい、かつての人類の思考法を継承していると言える。「大きな物語」を引きずっているのだ。



おそらくは陰謀に見える現象に本当は意味などないのだ。少なくとも少数の意志によって世界を動かせるほど人間は万能であるはずがない。
もともと「意志」によって世界は動いてなどいない。それは播種行為が文明に見えるようなただの錯覚にすぎないのだ。
それを認めることは、啓蒙主義的進歩史観に毒された現代人にはなかなか難しいことなのかもしれないが、そうした痴愚なる無力な歩みを自覚しそこにあえて踏み入ることこそ本当の勇気なのかもしれない。
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