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2009年07月22日11:45

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廃墟としてのSF

昨日は遺構としてのマンガを取り上げたが、「SF」というジャンルもまた過去のものとなりつつあるように思う。
ハインライン、アシモフ、クラークも亡くなりバラードも先日鬼籍に入った。もはやSF黄金期のスターはいなくなり、それにとってかわる世代交代も起きていないように見える。
それはとりもなおさず、サイエンス・フィクションという手法自体が死に瀕していることを表しているのだろう。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3



ウィキペディアにあるように、科学技術に基づいた素材を用いて空想的なフィクションを描くことがSFと言うなら、ダンテの『神曲』だってそうだ。それが無くなることはないだろう。
宇宙や異次元など日常から離れた場所を舞台にする小説をSFと言うなら、『浦島太郎』だってそう言える。それが無くなることもないだろう。

しかし、われわれが感じているウェルズを始祖とする一般的な印象としてのSFは、確実に衰退し消えていくように思える。それは何故か。
消えていくもの、それはどういった要素なのだろうか。


一昨日は、アポロ11号の史上初の月面着陸からちょうど40年だったそうだが、思えばあの頃がSFの隆盛期だったと言えるかもしれない。
少なくとも日本においてはそうだろう。高度成長の波に乗り、新幹線が作られ万博が開かれ、科学技術が礼賛された。宇宙飛行士の降り立った月は、もはやかぐや姫のいるところではなくなった。

フィクションの世界は現実社会を一歩先んじて展開するものだが、その方向性は明らかに科学技術を信じ進歩的な変化を目指していた。それがたとえ破滅的世界を描くにしても、そうした変化を示すのが科学という水先案内人だった。

つまり科学という共同幻想に立脚した「予感」がフィクションの原動力となっていた。それがSFだったのだ。



「これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」


アームストロング船長のこの有名な言葉は示唆的と言えるかもしれない。
ここで彼は「人間」という小さな存在の行動を、「人類」という大きな括りの象徴に置き換えている。

当時冷戦の対立の真っただ中にあっても、科学技術は人類共通の所有物だった。ソ連もアメリカも宇宙に目を向けるとき、国を超えた人類というカテゴリーで問題に相対していた。ライバルではあっても目指す目標は同じ、共に同じ方向を向いていたのだ。
実験と研究を怠らなければ、ソ連だろうとアメリカだろうと同様に原子力の力を手にいれ、宇宙に進出することができる。
その意味で、科学は個人や国家を超えた人類という共通した括りを意識させるツールだったと言える。

そんな中にあって、文学もまたそのテーマを「人間」から「人類」に転換していった。
それまで「人間とは何か」を求めていた文学が、「人類はどうなるのか」を意識しだした。
個人の生ではなく、種としての存在を見据える視線、それこそがいわゆる「SF」のテーマだったのだ。

シェイクスピア、ディケンズ、チェーホフとハインライン、アシモフ、クラークの最大の違いは、前者が個人の問題や想いに沈潜していくのに対し、後者は個人を超えた所で問題を止揚しようとしている点と言えるのではないだろうか。前者が「人間と文明」や「人間と社会」の対立を描いたとすれば、後者は「人類と文明」「人類と社会」そのものをテーマとした。

今思えば稚拙な楽観を感じさせないではない。科学が本源的な二項の対立をアウフヘーベンするなどとは。
しかしそういう楽観が働く程度に、当時は科学技術が希望の星だったのだ。

科学がそれまでの個人/人間の問題を解決するか、しなくともそれが問題ですらなくなる世界を描くこと。それこそがわれわれが感じていたSFだったのだ。


そう考えると、そうしたSFが現在衰退にあるのは何となく頷ける。
それは現在の社会に、科学技術に対しての不信が芽生えたからではない。逆にそれらが確実に現実化されてきて、科学技術に対し過剰な楽観を持たない程度に社会の意識が成熟してきたということなのだろう。

そしてそれでもやはり「人間の問題」は厳然としてあり、本質的な解決はされ得ないことに気が付いた。
そうした問題には足元から向き合わない限り、人類などという巨大な括りに到達することはないのだと気が付いたのだ。
いや、人類の歩みなどというものは無い。人間の一歩一歩の歩みだけがあり、それが積み重なって幻想の括りで語られるだけなのだ。


今、アームストロング船長が言葉を残すとしたら

「このはるかかなたに記された足跡も、人間の小さな歩みの積み重ねの結果なのだ」

と言うかもしれない。

時代精神というものがそのように変化しているように思う。それゆえ、SFという一足飛びの夢が語られなくなったのだろう。
そして今後、科学技術に対する共同幻想が再燃することは無く、つまりはSFブームが再び起こることも無いと考えられる。

もしそれがあるとしたら、その時はまた種としての人類を意識させる何か別のものが発生したことを意味するだろう。
たとえば本物の宇宙人が来訪するとか、地球規模の大災厄に襲われるとか、種としての人類が終焉を迎えるとか。

でも、その時は「予感」ではなく「現実」として対峙することになるので、やはりSFの出番は無いかもしれない。
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