
きのうのですね、
蠃
という字ですね。このタイプの字は、日本ではほとんど使われていませんが、実は、この形式の文字はけっこうあるんです。
嬴 女扁13画 総画数16
羸 羊扁13画 総画数19
蠃 虫扁13画 総画数19
贏 貝扁13画 総画数20
臝 肉月17画 総画数21
驘 馬扁13画 総画数23
鸁 鳥扁13画 総画数24
――――――――――――――
瀛 三水16画 総画数19
攍 手扁16画 総画数19
籝 竹冠16画 総画数22
籯 竹冠20画 総画数26
灜 三水20画 総画数23

どうですか? ここまで来ると壮観ですね。なぜ、こんな文字があるのか、というと、どうやら、
luo [ るオ ] という音をあらわすに
「音符」 に事欠いたから
らしいのです。

基本的なことを申し上げますと、中国語というのは、発音の同じ文字を 「音符」 として引っぱって来て、これに、「部首」 (限定符) という “どんな分野のコトバなのか” を示す記号を付けます。これが、いわゆる、「形声」 (けいせい) という造字法で、漢字の9割以上は、この方法でつくられます。

ところが、音によっては、手頃な 「音符」 がないことがある。

luo にどんな音符が使われているかというと、
羅 ── 銅鑼 (どら)
累 ── 田螺 (たにし)、騾馬 (らば)
果 ── 裸
各 ── 洛 (→落)、絡、酪

── 嬴、羸、蠃、贏、臝、驘、鸁
の5字です。では、この5字の音変化を見てみましょう。
【 羅 】
上古音
lai 1 [ らイ ]
中古音
lɑ 1 [ ら ]
近代音
luɔ 2 [ るオ ]
現代音
luó [ るオ ]
【 累 】
上古音
lĭwəi 3 [ りワイ ]
中古音
lĭwe 3 [ りウェ ]
lĭwe 2 [ りウェ ]
近代音
lui 4 [ るイ ]
現代音
lèi [ れイ ]
lĕi [ れイ ]
【 果 】
上古音
kuai 2 [ クアイ ]
中古音
kuɑ 2 [ クア ]
近代音
kuɔ 3 [ クオ ]
現代音
guŏ [ クオ ]
【 各 】
上古音
kak 4 [ カク ]
中古音
kɑk 4 [ カク ]
近代音
kɑu 3 [ カウ ]
現代音
gè [ クー ]
【 蠃 】
上古音
luai 2 [ るアイ ]
中古音
luɑ 2 [ るア ]
近代音
luɔ 3 [ るオ ]
現代音
luŏ [ るオ ]

これを、時代を軸に編成し直してみましょうか。
【 上古音 】
羅 lai 1 [ らイ ]
累 lĭwəi 3 [ りワイ ]
果 kuai 2 [ クアイ ]
各 kak 4 [ カク ]
蠃 luai 2 [ るアイ ]
【 中古音 】
羅 lɑ 1 [ ら ]
累 lĭwe 3 [ りウェ ]
lĭwe 2 [ りウェ ]
果 kuɑ 2 [ クア ]
各 kɑk 4 [ カク ]
蠃 luɑ 2 [ るア ]
【 近代音 】
羅 luɔ 2 [ るオ ]
累 lui 4 [ るイ ]
果 kuɔ 3 [ クオ ]
各 kɑu 3 [ カウ ]
蠃 luɔ 3 [ るオ ]
【 現代音 】
羅 luó [ るオ ]
累 lèi [ れイ ]
lĕi [ れイ ]
果 guŏ [ クオ ]
各 gè [ クー ]
蠃 luŏ [ るオ ]

ここから何が読み取れるでしょうか。1つ重要なことは、
「蠃」 と 「果」 は古代から、
語頭の [ k ] ― [ l ] の違いを除いて同音だった
ということです。

たとえば、「洛」、「絡」、「酪」、「落」 の音変化を見てみましょう。
【 洛・絡・酪・落 】
上古音
lak 4 [ らク ]
中古音
lɑk 4 [ らク ]
近代音
luɔ 4 [ るオ ]、
lɑu 4 [ らウ ]
現代音
luò [ るオ ] <文語的>、
lào [ らオ ] <口語的>

これらの文字が、なぜ、音符に 「各」 (上古 kak 4) を選ばざるをえなかったかがわかります。音符に使う lak 4 という音の手頃な文字がなかったからでしょう。

では、「裸」 の音変化を見てみます。
【 裸 】
上古音
luai 2 [ るアイ ]
中古音
luɑ 2 [ るア ]
近代音
luɔ 3 [ るオ ]
現代音
luŏ [ るオ ]

これも理由はすぐにわかります。やはり適当な音符になる文字がなかったから 「果」 (上古 kuai 2) を借りたワケです。

ここで、
「蠃」 のタグイの文字に移ります。この文字のツクリとなっている
「

」 は、独立した文字として伝わっていません。『説文解字』 によれば、

者、多肉之獸也
「

」 というのは肉の多いケモノのことである。
とされています。すなわち、「肉」 を部首とした文字です。ならば、残りの部分はナンだろう?と考えても、これはまったくわからない。しかし、どうも 「音符」 ではないらしい。むしろ、「肉」 に何かをしているサマを描いた 「会意文字」 ではないか。

というのも、
臝
という文字の存在がそれを物語っているからです。他の文字が、
部首 + 「

」
だったのに、
「臝」 のみ部首が 「にくづき」
だったのに気づいたでしょうか。なぜなら、
他の字で 「部首」 が入る位置に、この文字だけ 「音符」 が入っている
からなのです。すなわち、「

」 は原字で、
「臝」 は、それに “音符である 「果」 を加えたもの” であることがわかるのです。

実は、
「蠃」 の系統の字は、「

」 が音符であるワケですが、その字は、音符を加えて
「臝」 とも書かれるワケで、言ってみれば 「果」 が音符であるのと同じなのです。だからこそ、上古音から現代音に至るまで 「裸」 と発音が同じなのですね。
「蠃」 の系統の文字がたくさんあるのは、上古で luai 2、中古で luɑ 2、近代で luɔ 3、現代で luŏ という音の文字をつくろうとすると、「裸」 のように kuai 2 の系統の文字に頼るか、さもなくば、「

」 luai 2 という文字に頼らざるをえなかったからでしょう。

ことによると、「裸」 を音符にすることも考えられますが、そういう文字はつくられませんでした。

以下の文字は、日本語音では 「ラ」 と読むべき文字です。
【 蠃 】 luŏ 「オオフタオビドロバチ」
【 臝 】 luŏ 「虎、豹のたぐい」、「“裸” の意に借用」
【 驘 】 luó “騾” の異体字
【 鸁 】 luó “須〜” で 「カイツブリ」。“過〜” で 「ミソサザイ」。

ところが、そんなことでスッパリ解決しないのが漢字の音というヤツで。
【 羸 】 「痩せて、虚弱である」
上古音
lĭwai 1 [ りワイ ] /
luai 1 [ るアイ ]
中古音
lĭwe 1 [ りウェ ] /
luɑ 1 [ るア ]
近代音
lui 2 [ るイ ] /
luɔ 2 [ るオ ]
現代音
léi [ れイ ] /
luó [ るオ ]

この文字なんぞ、上古音の時代から2種類の音が並行して存在し、それぞれ、音符は 「累」 と 「

」 にあたる文字でした。皮肉なことに、音符として 「

」 を選んだのに、現代標準語として使われるのは 「累」 の系統の音だったのです。だから、現代では 「羊+累」 としてもよい文字です。

で、問題は下の7字です。7字とは言うものの、実は、
「贏」 の1字であり、あとは、その異体字、および、「贏」 を音符とする文字です。日本語の音読みでは 「エイ」 になります。
【 嬴 】 yíng 「“贏” の異体字」、「“姓” の1つ」
【 贏 】 yíng 「勝つ」、「満ちあふれる」、「金をたかる」
――――――――――――――
【 瀛 】 yíng 「海」、「“姓” の1つ」
【 攍 】 yíng 「担う、負う」
【 籝 】 yíng 「“籯” の異体字」
【 籯 】 yíng 「竹カゴ」、「竹で編んだ箸入れ」
【 灜 】 yíng 「“瀛” の異体字」
上古音
ʎĭeŋ 1 [ りエン ]
中古音
jĭɛŋ 1 [ ィイエン ]
近代音
iəŋ 2 [ イアン ]
現代音
yíng [ イン ]

上古音では、語頭に “湿音のL”
[ ʎ ] があったのがわかります。この “湿音のL” というのは、あらゆる言語で登場しては、消失して [ j ], [ i ] になります。たとえば、
fille [ ' fij ] [ ' フィーユ ] 「娘」。フランス語
は、ラテン語の filia [ ' フィーりア ] に由来します。
filia [ ' fi:lia ] [ ' フィーりア ]
↓
[ ' fi:ʎə ] [ ' フィーりゃ ]
↓
[ ' fi:jə ] [ ' フィーヤ ]
↓
fille [ ' fi:j ] [ ' フィーユ ]
というぐあいです。

ところで、この系統の音は、歴史をいくらさかのぼっても、「

」 という文字とクロスしないんですね。方言音を参照してみても、北京音とさほど変わらない。『説文解字』 なども、適当な説明でお茶を濁しています。そりゃそうでしょう。いくら算盤をはじいても金額が合わない。

どうもですね、この yíng という音、「嬰」 の系統と似た音なのです。
【 嬰 】
上古音
ĭeŋ 1 [ イエン ] ──
ʎĭeŋ 1
中古音
ĭɛŋ 1 [ イエン ] ──
jĭɛŋ 1
近代音
iəŋ 1 [ イアン ] ──
iəŋ 2
現代音
yīng [ イン ] ──
yíng

どうです。ここで両方の字形をよく眺めてみてください。
嬰 ── 贏嬴

どうですか。文字の構成要素が似ているでしょう。「貝貝女」 と 「月貝凡」、「月女凡」。古い時代は、「凡」 は
「丮」 のような字形ですから 「女」 や 「貝」 に見えないこともない。

実は、こう解釈すると、なぜ、
「贏」、「嬴」 の2字が異体字の関係なのかも判明します。すなわち、もともとは、「勝つ、利益」 という意味ですから 「貝扁」 なのは問題ないですが、これが 「女扁」 に変わっても “同じ字” だというのは理屈にあいません。

つまり、本来は、「貝嬰」 という構成で 「勝つ、利益」 ʎĭeŋ という文字にすべきところを、構成要素が似ている 「

」 と組み合わせてしまったのではないか、と思うわけです。「あれ、女がないぞ?」 と思うと
「嬴」 になってしまう。

まあ、それくらいしか解決法が思いつかないのでした……
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