最近Twitterで、ゲームの評価についての議論がなされている。「ゲームの評価はゲーム部分ですべき、ストーリーを評価に入れてはいけない」とか「プレイヤーによって体験や結果が変わらないゲームは映像作品でいい。だから実況で見るだけで同じ体験が得られる」とか好き勝手言われている。
特に今回は後者に関して話したい。
はっきり言って、ゲームというのはゲームであることに意味がある。仮に映画などの映像作品とゲームが用意されていて、その二つがたとえどれだけ内容が変わらなかろうが、ゲームと映像では体験は変わる。当然実況で見るのと自分でプレイするのとで、内容がノベルゲーとかほぼムービーばっかとかだったとしても、確実に変わる。
なぜならばゲームは能動的なものだからだ。映画や実況を見るというのは受動的体験である。そこに自分の意思は介在しない。
一方でゲームはたとえボタンを押すだけだったとしても、そこに自分の意思が介在する。たったそれだけでもそのコンテンツに対して能動的になれるし、能動的な見方ができるようになる。
ムービーが多いゲームに対して、「映画でいいじゃん」と言われることがある。はー待て待てなーんにも分かってねえじゃん。まるで映画のようなゲームを自分でプレイするからいいんじゃん。たとえムービーが多かったとしても、自分の介在する余地があるからいいんじゃん。メタルギアソリッドやデスストなどのコジマ作品なんかまさにそうだ。”遊ぶ映画”である。
それを言ったら、小説も自分でページをめくる能動的な行動をによって読み進めるのだから、ノベルゲーとかは小説でいいじゃん、となる。だいぶ屁理屈ではあるが、私も正直半分はそっちの考え方を持っているので、そう考える気持ちはわかる。
だが、小説は小説、ゲームはゲームなのだ。媒体が違うのだからそうである。そして体験は近しいかもしれないが、近しいだけで同じではない。そもそもゲームも小説もそれぞれ演出やアプローチの仕方が違うのだから、同じだなどと口が裂けても言えない。
ノベルゲーは基本的に背景とキャラクターあるいはスチルをバックにテキストウィンドウに二行のテキストが表示される。それをボタンを押すことによって読み進めていく。この、「常に絵を背景にし、一回にたった二行しか表示されない」ことこそがノベルゲーならではの演出だと考える。小説だと先の文章も見えてしまうし、挿絵があったらそれも見えてしまう。なのでそれを追う感覚になる。
ゲームならボタンを押さないと次がわからないようになっている。だからこそ、作中と自分の感覚がリアルタイムかのように限りなくシンクロされて、一緒に進む感覚になれる。
小説でもページ捲りのタイミングなら似たようなことができるが、ゲームは常にそれが出来るのが利点である。一方で小説はただひたすらに「読む」ものである。体験ではなく物語を”知りたい”というなら小説の方が適している。
ということでゲームとそれ以外では全然違うのである。
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