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2026年05月12日18:48

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百済の七支刀

古代史研究会 · 河原白兎

『百済の七支刀』

 AD4世紀頃、「七支刀」という剣が日本に渡来している。
この剣は百済から日本に贈られたもので、今は石上神宮の神宝となっているものだが、この百済という国を考える時、この国がある時期から日本と一体になり、運命をともにし始めていることに注意しなければならない。
 それは、この宝剣「七支刀」が百済から日本に贈られた頃からのことであった。
七支刀は布都御魂と同じく、殺傷用の剣ではなく祭祀用の剣だった。
刃先が七つに枝分かれしているのが特徴だが、この七つの枝は北斗七星を表し、人々の運勢や天候、飢饉や天災などに影響を及ぼす天空の星の運行を調整し、毎年農作物の実りが良く、災害の少ない、人々が暮らしやすい年になるよう、神に祈願するためのものだった。

古代の人々は夜空を観察して、星の配置や運行を調べた。
そして、あまたの星の中でも北極星だけはじっと動かず、北の端に鎮座したままであることに気づいた。
その北極星の周囲を北斗七星の七つの星が回る。
それは指揮者のタクトのように動き、他のすべての星はオーケストラのように、その動きに合わせて北極星の周りを回っているように見えた。
このことから人々は、北極星を天空の諸星を統治する王と認識し、北斗七星はその王と、王の命令を各地に伝える将軍のような存在だと考えた。
この七支刀を手にした者は北極星の力を持ち、天空の星すべてに号令をかけることができる。
これを霊力の強いものが使えば、国を災害から守り、他国との戦争に勝利し、国を繁栄に導くことも可能であると考えられていた。
そのため、この七支刀を使うことができるのはその国の祭司長に限られていた。

この時代、祭司長は同時に国の最高権力者だったので、祭祀長イコール国王でもあった。
七支刀は国の祭祀長以外の者が使うことは許されなかった。
その七支刀が百済からヤマト王権に贈られたという事実は、百済が日本に対して国の統治権を譲渡したということを意味しており、また、日本がこれを受け取ったということは、日本がこの申し出に応じ、百済国を日本の版図に組み入れたという意味がある。
実際にこの一件以降、日本という国はその歴史において、高句麗や新羅と戦ったことは何度もあるが、百済と戦うことは一度もなくなるのである。

 百済という国は当時、高句麗、新羅、中国(隋や唐)という強国に囲まれた状況にあり、七支刀が贈られた頃は周辺のほとんどの国と戦争を繰り返している状況にあった。
そして、負ければいつ滅んでもおかしくない、という状況にずっと置かれていた百済が頼れる国は、日本以外になかった。
その意味では、この宝剣を日本に贈るという行為には、国の最高の神宝を手放してまでも、日本との同盟を成立させようとした百済の必死さがうかがわれる。
七支刀は百済という国の命運を託された剣だったのである。
この剣が日本に贈られた時期は、神功皇后が三韓征伐を行ったとされる頃で、新羅王室の血を引く神功皇后との対立を避ける上でも破格の贈答品だったという側面もある。
日本と新羅が連合して百済に攻め入ってくれば、百済に勝ち目はなかった。
その後、百済は国力が徐々に弱まり、滅亡の危機に瀕したため、日本に対してさらなる貢物をしたり、人質を差し出したり、仏像や経典を贈ったりして、なりふり構わず日本を懐柔にかかった。
同時期には新羅もまた日本を懐柔すべく、朝貢したり同盟を誘ったりとさかんに接近してきていたので、百済としては新羅をはるかに上回るような調略品が必要だったのである。

 百済の日本懐柔作戦はすさまじいものだった。
たとえば、聖徳太子の時代に百済から日本に贈られた宝物だけでも、法隆寺の広大な伽藍群の中にさえ収まりきらないほどの量があった。
これらの献上品は、現代でも上野の国立博物館の敷地内に「法隆寺宝物館」として、この博物館のすべての展示スペースをいっぱいにして展示されている。
 このようにして百済は日本との関係を緊密にして行ったのだが、そう考えると、日本が白村江の戦いという無謀な戦争に突き進んで行かなければならなかった理由も理解できる。
当時すでに日本の一部のような状態だった百済が攻められたのであるから、日本が百済を救済に行くのは当然のことだったのだ。

 しかも、このときの日本の王権の中枢には、扶余豊璋のような身分の高い百済系の渡来人たちがいた。
豊璋は百済の皇太子で、次期国王の身分を約束された人物だった。
彼らは人質として、あるいは人質同然の状態で渡来してきたが、ヤマト王権では彼らを王族として礼遇した。
そして、結果的に豊璋らはヤマト王権の中枢にいた人物と親密な関係を築き、彼ら百済人が日本の政局を動かすことに成功する。

 王族でもあり、高い教養も備えていた百済人からは学ぶことも多く、政治的にも利用できる、とヤマト王権の人々は判断していた。
当時は百済と日本の高官同士の縁組も盛んに行われており、そうした百済人は日本でも確固たる地位を与えられていたケースも多く、彼らの発言力も大きかったのである。
このような百済厚遇政策の結果、白村江の戦いの前にはすでに数千人もの百済からの渡来者が日本に来て居住しており、ヤマト王権内に大きな影響力を及ぼしていた。
そうしたこともあって、日本軍は白村江に向かった。
と言うより、向かわざるを得なかったのである。
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