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2025年03月15日15:29

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神武東征の初戦

<枚岡神社>
枚岡山の鎮座する神社
東大阪市出雲井町にある
元春日とも呼ばれ、狛鹿があり
注連縄も独特である。
中臣氏の祖の天児屋根命を主祭神とする

上記の判明していることから、
考察することにします。
藤原氏が氏神として春日大社を創建した際に、
勧請されたことに、元春日と呼ばれるようになったそうで、
藤原氏の勢力が強い時代に、今の場所に建て替えらた。
祖先の神は、鹿を神使とすることでも知られることで、
狛鹿が設置されたのもその意味合いが強いのでしょう。

もともとお地藏さんの発展系として記載がありますが、
山岳信仰の発展系かとみると、
巨石があるわけでも岩肌が露出している場所もなく、謎である。

残りの可能性は、町名にもある出雲井。
東大阪市出雲井町の出雲井とは、
神社の境内にある井戸の名前に由来するそうで、
枚岡神社の建て替え前から存在するのでは?と想像できます。
さてその出雲井ですが、出雲大社摂社にみることができ、
岐神(くなどの神)が祀られてる。
道祖神の原形になった岐神からして、
村境、峠などの路傍にある道祖神=奥の院神津嶽から降りてきたもの
と考えら、辻褄合わせに井戸の名前にしたのではないかと考察される。

由来から、
「神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて
、天種子命(あめのたねこのみこと)が平国(くにむけ)
(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神の二神を、
霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られた」
とありますが、
この地付近で兄が負傷する負け戦をしている神武天皇が、
撤退せずに、悠々と神社を創建している場合ではないと、
想像出来るのですが。
出来るとしたら、兄の手当だと思いますが、
では、たどり着いた場所に創建するとしたら、
”日下の蓼津”あたりが妥当な場所と想像します。
領土を奪いに来た側が<国土平定の為に>って、
現代風なら、ロシアのウクライナ侵攻が正当であると
言うてるみたいなものである。
ならば、逆説で説いてみると、
<国土平定の為に>
 和歌山まで逃げたときに、負傷した兄が亡くなる
 竈山神社に五瀬命の墓を作り、
 同時にその神霊を祀る祠を建てたと
 紀伊続風土記に記載ある

残念ながら、歴史に縁も所縁もなく
ただ古くから慕われてた道祖神という信仰を、
藤原氏が活用して、知名度をあげたと考察します。
神武東征時に、白肩津で停泊し”日下の蓼津”
(神社より西の盾津中学のあたり)で下船し、
土着の豪族“長脛彦(ナガスネヒコ)と戦う。
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(生駒の阪奈道路わきの荒れ地にある)
この時、4人兄弟の長兄である五瀬命(イツセ)が、
負傷する場所(孔舎衛坂)もお近くにあることから、
これらのストーリーを利用し正当化して、
藤原氏のサクセスストーリーに華を飾る。

では、神武東征のルートとしては?
<古事記では、>
浪速之渡を通り、青雲の白肩津で停泊した。
この時、長髄彦と戦った。
磐余彦尊等が御船を降りる時、楯をとって降りたことから、
この地を日下の蓼津と呼んでいる。
でも、どこにも痕跡が残っていない!
<日本書紀では、>
龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、
東に軍を向けて胆駒山を経て中洲へ入ろうとした。
その地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦いになった。
盾をたてて雄叫びしたので草香津を盾津(蓼津)と改称した。
唯一、地名として”盾津”が残っているくらいである。
どうして山越えを選んだのか?
普通なら、海からやってきた大軍団を
川を遡るのが手っ取り早いと思うのですが。
道が険阻で先へ進めずとあるけど、
国分から165号線の山越えなら、
比較的簡単に超えられそうである。

浪速之渡は大阪市北区天神橋2丁目1番8号
にある大阪天満宮の一角に記念碑があるくらい。
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上記の記念碑は、昭和12年(1937年)に
恩賜財団奉祝会によって建てられたのである。

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