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2019年10月13日11:18

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このサイトに嵌まってますPart0018

 本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生878日目、「極東戦域核戦争」開戦832日目、「人民の天皇論」宣撫開始167日目(怒)。〔再掲〕日本法制通史概論その4。前回の7日後に書いたのが「日本法制通史概論」第10弾。「日本外交創生編」。〔2016年01月07日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0020


 さてと、今年も話をはじめますか。前回、「韓半島古代史の概要」まで行った。では本題である日本最初の外交史について語ろう。2050年前、韓半島は4つの異なる民族が支配するエリアに分かれていた。一番北の旧玄兎郡(今の吉林省南部)には後に女真族といわれる満州系狩猟民族の高麗人が高句麗王国を建国していた。その南の平壌(北朝鮮)にはチャイナの商業コロニー(楽浪郡)がおかれていた。その南(現在の韓国北部、ソウル近辺)には馬韓地域と呼ばれる扶余族系の都市国家の群れが存在してた。そして


、最も南には日本の九州諸国と出雲王国が建設した倭族系コロニーが展開していた。


当事、日本は3つのエリアに分裂していたがそれぞれの勢力圏拡大に忙しく、協力と対立を繰り返していた。日韓7つのエリアの中で最も栄えていたのは最先進文明のチャイナが設置した平壌コロニー(楽浪郡)であり、最も貧しかったのが満州族の高句麗王国だ。そして、この中で最強の武力を持っていたのが狩猟系騎馬民族の高句麗王国であり、この時点で最弱だったのが建国間もない大和国つまり日本国だった。モンゴルにはこんなことわざがある


「金持ちだか弱いと思われるほど危険なことはない、そして貧乏だか強いと思われるほど嫌われることもない」


と。最強の高句麗王国は当然のように平壌コロニー(楽浪郡)へと攻め込んだ。だか、相手はチャイナ大漢帝国。平壌コロニー(楽浪郡)自身は高句麗より弱くても大漢帝国全体と比べれはお話にならない。次から次へと送られてくる援軍によってコテンパンにのされた。そこで高句麗は作戦を変えた。平壌コロニー(楽浪郡)自体を狙うのではなく、


平壌コロニー(楽浪郡)に従属する周辺諸族を撃破しコロニーを孤立させる戦術に打って出たのだ。


まず、すぐ南(現在の北朝鮮カンコウ付近)の扶余系北沃沮族が滅ぼされる。チャイナ軍も反撃に出て高句麗王が戦死する事態に陥り、一時侵攻を停止するが1950年前侵攻を再開。平壌コロニー(楽浪郡)の西(現在の北朝鮮元山付近)に住んでいた扶余系東沃沮族がこれまた滅ぼされる。これで震え上がったが同じ扶余系の馬韓人達だった。当たり前だ、負ければ男は殺され女は全員奴隷として売り飛ばされるんだから。


馬韓人は当事協力関係にあった南の倭族系コロニーに救援を求めた。


これに九州諸国の代表として「奴王国」が答え、ここに九州諸国と馬韓諸国との同盟が結ばれた。これが日本「人」が歴史上最初に結んだ外交関係である「九馬同盟」だ。「九馬同盟」はチャイナにとっても平壌コロニー(楽浪郡)を維持するために有効であり、そこで奴国王を「漢委奴国王(漢が任命した奴の国王)」に任じ、平壌コロニー(楽浪郡)との優先的交易権を与えた。これに仰天したのが大和国つまり第5代孝昭天皇である。当たり前だ!


奴国王が漢の皇帝に任命されるとは九州がチャイナ領になるという事


ではないか!ここから、この驚愕から日本「国の外交」が始まる。建国者神武天皇が死ぬほど恐れた事態が「現実の脅威」としてやってきてしまったわけだ。すぐさま、チャイナに使者が送られたが、これが悉く九州諸国と出雲王国にとっつかまってしまい、うまくいかない。そこで今度は両国に対して日本の「独立」について頭を低くして説得するための使者が次々と送られた。だが、平壌コロニー(楽浪郡)との交易で莫大な利益を得ていた両国はまったく聞く耳を持とうとしなかった。直接的交易ルートを持たない大和国のただの嫉妬だと思っていた。説得は不可能だった。第6代孝安天皇は決断した。もはや両国を「武力鎮圧」するしかないと。


こうして、外交問題に端を発した「日本国統一戦争」の火蓋が切って落とされた。


まずは、国境を接している出雲国がターゲットとなった。1900年前、大和国は福井県敦賀市を襲撃。越諸国と呼ばれていた日本海岸の出雲系コロニーと本国との間のSLOC(海上兵站連絡線)を切断する。ついで、出雲国の宿敵である九州諸国と連絡を取り同盟を申し込む。このころ、高句麗の平壌コロニー(楽浪郡)襲撃が激化し九州諸国は韓半島で大損害を受けていたので、一も二も無く賛成し「大九同盟」が結ばれた。すぐさま、孝安天皇は九州諸国に先導を命じてチャイナに使者を送った。これが「倭面土(ワミャンド=ヤマト)国王の遣使」だ。スメラミコトの下手糞なチャイナ訳「師升」を名乗り、


「奴国王は私の部下です。私が倭国(日本国)全体の責任者です。漢の皇帝の名でそれを認めていただきたい」


見事に失敗した。正直、ストレートすぎた。チャイナにしてみれば奴だろうが倭面土だろうがどうでもいいのだ。平壌コロニー(楽浪郡)を維持する兵力が欲しいだけであり、残念ながら当事の大和国には韓半島に出兵する能力そのものが無かった。ケンモホロロニ追い返され外交で和平を一挙に実現する夢を砕かれた孝安天皇は自ら始めた「日本国統一戦争」の大事業に戻るしかなかった。幸い、戦況は極めて大和国の優位に進んだ。


第7代孝霊天皇の御世の1850年前には最後まで残った長野県諏訪市の出雲系コロニーを制圧し東国を完全に掌握した。


圧倒的優位を確立した大和国はいよいよ出雲王国本国への侵攻を開始する。第8代孝元天皇の御世だ。この時代がいわゆる「倭国大乱」の時代だ。まず、出雲王国の資金源を断つ通商破壊戦術が取られた。隠岐諸島が占拠され、そこから出撃した大和海軍が次々と出雲王国の船と港を襲撃し焼き払った。続いて1830年前、出雲王国の属領である辰韓コロニーに船団を派遣。出雲王国と断交するよう交渉するもどうもこれは失敗したようだ。そして1800年前、ついに首都・出雲が陥落、ここに「日本国統一戦争」は終結した。ってとこで外交史も途中だけど、今日はここまで。とほほ。



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 次いで2日後に書いたのが「日本法制通史概論」第11弾。「対チャイナ外交創生編」。〔2016年01月09日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0021


 ぐえーーーー。はーーー。疲れた。なんで、俺が朝から12時間もかけて「魏志倭人伝」なんて全訳しなきゃいけないのよ?勘弁してくれ(ToT)。でも、これで少し自信もって史実との整合すると言える翻訳が手に入ったよ。同時に今日は、日本の考古学界がいかに「マッカッカ」なのかを骨身にしみて思い知らされたね。最低限、おサルのお尻より「マッカッカ」だ。ほんと、吐き気が止まらない。


おまえら「子供たちの右目」を抉り取るのがそんなに楽しいのか(激怒)!


奴らの議論は常に自分たちの「薄汚い政治的意図(プロパガンダ)」とそれから敷衍された「結論」がまずあって、それに基づいて「意図的な」資料選択を行う。本当に吐き気がする。真実を求めて努力した結果ならそれが例えどんな結論でも俺は決して非難しない。批判はするけどね、「そこ間違ってね?」って。でも、奴らは違う。絶対に違う(怒)!昨日もビートたけしがTVで言いたい放題出鱈目こいてたけど、ほんとーーにたまんねーーよ!主題とずれるけどちょっと言わせてくれ。まず、以下の文章を読んで欲しい。



「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権(大和朝廷)が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」(薮田嘉一郎・森浩一)



・・・???・・・???・・・絶句。「三角縁神獣鏡」は「証拠」なのだ。普通の思考法なら古墳から邪馬台国の時代(西暦200年代)の「証拠」が出てくれば、当たり前だが(当時は300年代から造営され始めたと考えられていた)古墳の年代測定のほうを疑う。「おい、大丈夫か?」と。だが、薮田も森もその他の自称「考古学者」たちも古墳の年代の再測定もいっさいせずに、


何の根拠も無く「証拠」は「捏造」されたものであると言い放ったわけだ。


ほんと正気じゃねーー。繰り返すが「捏造されたという根拠」は何にも無いのだ。ちなみに森浩一は同志社大学の教授で、あからさまなインチキ学説「騎馬民族征服説」を放言した江上波夫と共著し、「言語障害」があるとしか思えない「歴史専門用語改竄」の常習犯で日本共産党ご用達の自称歴史家の網野善彦と対談を繰り返し、


日本共産党の正式宣伝工作員の松本清張のアドバイザーを勤めた男。


ふーーーーー。まじかよ。もうウンザリ(-_-;)!うんざりだよ!(ToT)。なんとかならんのかこの状態(ToT)。勝てるとは思わん。相手は外国と通じた巨大組織、こっちはただの個人でオタッキー。でも、子供たちへの被害を少しでも軽減するためには書かずにゃ居られねーーよ!ふーーーー(-_-;)。


 さてと、愚痴り終わったところで話を元に戻そう。前回、「統一以前の外交史」まで行った。今回は古墳時代の外交史に入ります。統一がなり、大和軍は同盟軍として九州へと入った。まず、南九州へと使者が送られた。受けたのは第二代綏靖天皇の時反乱を起こしたタギシミミノミコトの末裔たちだ。


言う慣れは「皇室お留守番部隊」だな(笑)。


「お留守番部隊」は使者が到着すると同時に全員、即時無条件降伏した。「あの時はどうも申し訳ありませんでしたm(_ _)m、調子こいてましたm(_ _)m、なにとぞなにとぞひらにひらにご容赦くださいーーーーー(ToT)(ToT)(ToT)。」、みんな大泣き(笑)。ま、無理も無い。「皆殺し戦争」の時代に、古代ではどこの国でも絶対に許されない「大逆事件」の犯人一族なのだ。しかも、戦力がライオンと三毛猫ぐらい違うんだから(笑)。


平和を求めていた第9代開化天皇は日向(ヒムカ・宮崎県南部から鹿児島県西部)の本領を平和裏に回復しその民を免訴した。


そして、タギシミミノミコトの末裔たちにかつての皇族一門の遺体・遺骨を収集し「神道」形式で改葬することを命じた。これが西都原古墳群(西都市、国の特別史跡)だ。大和国本土とほぼ同時期に南九州に前方後円墳が現れた理由がまさにこれだね。ま、さぞ熱心に取り組んだことでしょうね。それは自分たちが皇室の一門であり「許された」ことの証だったんだから。こうして、南九州はあっさり片付いた。そしていよいよ、九州諸国本隊である北九州に大和軍は進駐した。戦力の差は歴然。大和軍改め官軍は九州諸国の旧盟主「奴国(福岡県福岡市東部)」を通り過ぎ


「伊都国(福岡県糸島市)」に本拠を定めて自分たちこそ九州諸国の「盟主」であると宣言した。


そしてその執行機関として「イタケル(一大率)」をおいた。ついで、水軍を派遣し「末廬国(=松浦、長崎県松浦市)」、「一大国(=壱岐国、長崎県壱岐市)」、「対海国(=対馬国、長崎県対馬市)」、「狗邪韓国(=金官国、慶尚南道金海市)」へと軍を進め玄界灘を制海した。ただ、この時点ではまだ「狗奴国(=熊襲国、現熊本県)」を中心とする西九州がまだ独立しており、用意に渡海作戦を行える状況ではなかった。1750年前、そこに漢末の内戦を抑え韓半島南下の兆しを見せていたチャイナの魏王朝から使者が来る。


第10代崇神天皇はこれを契機にその150年前に「失敗した」対チャイナ外交を再開することにした。


目的は敵情視察と「狗奴国(=熊襲国、現熊本県)」等の日本国内の独立勢力がチャイナと同盟関係を結ぶ事を阻害するためだったに違いない。そのためには「邪馬台国(=大和国、奈良県)」を今度こそ日本列島全体の代表者として認めさせなければならせない。そのための仔細な準備を施して天皇は使者「ナトメ(難升米)」「トシグリ(都市牛利)」をチャイナの首都「魏都・洛陽」へと送った。ってとこで今日はここまで。はらへったーー(ToT)、飯も食わずに朝から15時間ぶっ通しだよ。とほほ。もーーー、やっ(-_-;)。



PS、これだけ頑張っても、成果はたったこれだけ。ふーー。愚痴聞かせてごめんね。でも、でも、やっぱり「量」が決定的にたりない!ホントはレベルも考えなくてはならないんだ。いまは「量」と割り切ってレベルを決定的に下げてるのに、それでも「決定的に」量が足りなーーーーーい!!!!!いったいどうすりゃいいんだ?とほほ。


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 続いて翌日に書いたのが「日本法制通史概論」第12弾。「対チャイナ外交再開編」。〔2016年01月10日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0022


 さてと、話を続けますか。前回、「統一後の九州処置」まで行った。今回はいよいよ本番、第二次対チャイナ外交について述べます。第10代崇神天皇が仔細な準備を施し使者「ナトメ(難升米)」「トシグリ(都市牛利)」をチャイナの首都「魏都・洛陽」へと送った。とこまでやった。では、この仔細な準備とは何なのか?それを理解するためには、神武建国を思い出さなければならない。なぜ、神武建国は行われたのか?それはチャイナの列島への軍事侵攻を恐れてのことだった。そのときの使った「機密情報」とは何か?そう、日本列島の地理的構成である。「魏志倭人伝」を読むとき絶対に忘れてはいけないことがひとつある。それは


古代において日本の地理的構成は「最高機密情報」てあった


ということ。みんな「日本史」なんて自国を外から見た「ゲテモノ史」しか知らないんで気付かなかったでしょ。一度でいいから自国の歴史を自らの「父祖達の苦闘」の記録つまり「国史(ナショナル・ヒストリー)」として読んでごらん。見えてくるものがまるで違うから。重要な事なのでもう一度繰り返す。


「日本史」と「国史(ナショナル・ヒストリー)」はまったくの別物だ。


本稿「日本法制通史概論」は日本の「国史(ナショナル・ヒストリー)」から「国法(ナショナル・ロー)」を取り出すための学術的取り組みであり挑戦なんだから、ここんとこはよく理解して欲しいもんだね。はーーー、なんで・・・・。さてと、愚痴は無しにして先を続けよう。つまり第二次対チャイナ外交いわゆる「邪馬台国の女王ヒミコの遣使」は第10代崇神天皇の命令で始まった対チャイナ「情報戦争」であったということ。以前「ロシア・東欧史概論」のおまけで情報戦は「二つの軸」と「4つのカテゴリー」で分類できることを述べた。再録すれば以下になる。


情報戦カテゴリー               担当者          活動区域

�.▲�ティブ・アタック情報戦  (情報工作戦) エージェント       主として外国
�▲▲�ティブ・ディフェンス情報戦(対抗情報戦) カウンター・エージェント 主として国内
��パッシブ・アタック情報戦   (諜報戦)   スパイ          主として外国
�ぅ僖奪轡屐Ε妊�フェンス情報戦 (防諜戦)   スパイ・ブロッカー    主として国内


 4つ全てが使われた。まず、情報工作戦を行うために「偽装君主」女王ヒミコが立てられた。その正体が崇神天皇の后にして実質的な第2代「斎宮(伊勢の祭主)」である御真津比売命(ミマツヒメノミコト)様であることは「古事記」の記述から見て間違いない。


対外呼称が「斎宮(現・伊勢の祭主)」であることから「日巫女(ヒミコ)」にすることもすぐ決まっただろう。


ちなみに崇神天皇は宰相役の「男弟」として振舞うことも決まった。弟なら「女王」の宮殿に出入りしても不自然じゃないし宰相役の王族なら普段道理、官・兵を指揮していても矛盾しない。この「設定」は全国の役所と王族に厳しく命じられた。一人でも裏切れば台無しだ。特に出雲王族(現・出雲国造家)と奴国王(後の筑紫の君一族)には目付け(スパイ・ブロッカー)が張り付いただろう(笑)。ついで、熟練の船乗り達が集められた。彼らにはとんでもなく困難な任務が与えられた。


「最高機密情報」である日本の地理的構成を偽装することが命じられた


のだ。まず、日本海ルートが決まった。瀬戸内はあまりにも島が多く、進行方向を偽装することが難しかったからだ。以前より平壌コロニー(楽浪郡)から多くの使者が来訪していた北九州における偽装も無理だった。そこで九州最後の寄港地、不彌国(福岡県福津市)以後、航海中「東を南」「西を北」と偽装することが決まった。うまくいけば本拠・大和国を今の南大東島の東方海上に偽装出るはずだった。「邪馬台国はムー大陸か?」って話にしたかったわけだ(笑)。そして使者派遣から2年たって諜報作戦込みで「魏都・洛陽」へ行った「ナトメ(難升米)」「トシグリ(都市牛利)」が魏の使者・梯儁と金印をともない帰任した。いよいよ、上は両陛下から下は庶民にいたるまで国一丸となった情報作戦、名づけて


「女王ヒミコ、役者やのうで大勝負!」大作戦ーーーー。


の幕が切って落された(笑)。大勝利だった。「魏志倭人伝」はその明白な証拠である。チャイナに大和の君主である皇后が「親魏倭王(魏の友好国たる倭の国王)」であることを認めさせ、地理情報と国力情報を秘匿し、ついでに昨日書いた「三角縁神獣鏡」のような宝物を大量にゲットした。一粒で3度おいしい大成功だと誰もが思った。そ・の・と・き・は。。。。最初の使者から8年後、帯方郡(平壌コロニー南部)の太守に王頎いう男が着任したころから雲行きが怪しくなる。王頎は張政という部下を送って「狗奴国(=熊襲国、現熊本県)」制圧作戦を中止するよう「内政干渉」を試みてきたのだ。こっちに言わせれば


え?親魏倭王(魏の友好国たる倭の国王)なんだから内政自治権あるんじゃないの?


みんな、ビックリした。そのころの日本人はあのいやらしい「野蛮な中華思想」について、まだ甘く見ていたのだ。やつらは一度てもかかわった外国を勝手に蔑み目下に置こうとするするのだ。特に崇神天皇は本当にビックリしたことだろう。


魏の皇帝ならともかく平壌コロニー南半分を支配するだけの小役人のその又部下から、日本の国内問題について指図されたのだ。


「野蛮な中華思想」においては「友好国」とは「属国」を表すことを思い知らされた崇神天皇は「斎宮(現・伊勢の祭主)」に本来の任務に戻るよう命じて伊勢へ送り出し、使者には「死んだ」と伝えさせた。それでも


張政は日本おそらく奴国(福岡県福岡市東部)で奴国王の保護下に居座った。なんと、20年間!


よっぽとぶっ殺してやろうかと思ったに違いない。だが、西九州を制圧せずに対外戦争など論外だった。そのご心痛の中で崇神天皇は崩御される。第11代垂仁天皇は再び偽装君主「トヨ(正体は「斎宮」豊鍬入日売命(トヨスキイリビメメノミコト)様)」をたて、皇帝への送答使の役目を与えてようやく張政たちを国内から追い出すことに成功した。人を呪わば穴二つ、人を騙さばうそ三つ。やっぱ、慣れない事するもんじゃないね。正直が一番と反省しきりの1750年前の日本人一同なのであった(笑)。


PS、はーーい、ヒミコの時代、王頎というチャイナの小役人が日本に「内政干渉」繰り返してたの知ってる人?はーーい、張政というクソ・チャイニーズが皇帝の威を借りて20年間も支配者気取りで日本に居座ってたの知ってた人?「国史(ナショナル・ヒストリー)」大切だと思わない?ま、いいや。良かったらお読みください。とほほ。


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ここで本稿はインターネット公開されるわけだ。しっかし、全公開なのになしてこの前後でこんなにアクセス数違うんだ?初回は26outviewで現時点でのコレ以後だと平均ほぼ200outviewと10倍近い「差」がでてる、なんで?〔2016年01月14日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0024編集する
2016年01月14日13:06全体に公開 みんなの日記 5 view

 結構前から悩んできた事だが、本ブログをインターネット上で公開することにした。正直、気が進まない。今までみくしーで書いてきて、一部例外はあるにしろ深刻なトラブルに見舞われたことはなかったからだ。書くだけならこのままの方がずっといい。誰も読まなくても「書くだけ」ならね(-_-;)。リスクとメリットはコインの両面。コインの表だけ欲しいってのは無理な話だ。昨日書いたとおりリスクをおってでもメリットを取りに行くことにした。ふーーー(-_-;)。きっおも!しばらくしたらとても「五月蝿い奴」になると思う。そのときはかんにんナ。これから、試験勉強再開するよ。叩けば埃だらけの万年床みたいなオタッキーが何でこんなことやんなきゃいけないのかね。ほんと、とほほ。



最近、考えたこと。Part0025編集する
2016年01月14日13:37全体に公開 みんなの日記 5 view


 ただいま、本ブログ448項目(原稿用紙1120枚分)インターネット上に全アップ完了。とほほ。


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「その4」はデーター量の関係から今日はここまで(笑)。まだまだ続きます(笑)。その話はまた次回語ろう。



おまけにみくしー検索かけてみました。三毛ネコさん、あの本、俺も読みましたが俺の感想は☆ゼロいやマイナスです(-_-;)。

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