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2019年10月11日12:57

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このサイトに嵌まってますPart0016

  本日「5.19皇統廃絶クーデター」発生876日目、「極東戦域核戦争」開戦830日目、「人民の天皇論」宣撫開始165日目(怒)。〔再掲〕日本法制通史概論その2。前回の3日後に書いたのが「日本法制通史概論」第3弾。「欠史八代編」。我ながらハイペースに続けてます(笑)。ほんと読み返すだけで腹立たしい(怒)。なぜみんなこの「学問の自由に対する重大な侵犯」になぜに平気なんだよ(-_-#)?〔2015年12月01日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0012


 さてと、前回日本建国の縁起までいった。2075年前、初代天皇「神武天皇」がご即位され日本国と日本文明が誕生した。陰惨な弥生時代のほぼど真ん中だね。ここから3世紀近い長い長い日本建国戦争の苦闘が始まる。神武さまは在位40年弱かけて現在の奈良県を制覇し大阪府と三重県に勢力を伸ばした後、崩御なされた。その直後さっそく内紛が起こってしまう。「天孫族」改め「皇族」は大和の国を総本拠と定めたが、元々海洋民なので海路を通じて日向(ヒムカ・宮崎県南部から鹿児島県西部)の本領とも連絡を保っていた。


神武さまは「ヤマト」の理念に従い奈良県最大の豪族の娘を正妻に迎え2人の息子を生したが、実は日向にも妻がおり息子が2人いたのだ。


その次男の名前をタギシミミノミコトと言う。神武さまにしてみれば先妻の息子には本領、正妻の息子には総本拠をお与えになるおつもりだったのだろう。だが、この次男が途轍もなく強引なお方で神武さま崩御と同時に自分こそが皇位を継ぐべきだと主張して兵を率いて上洛してきた。そして、玉座に着きなんと先帝の正妻タタライスケヨリ姫と結婚してしまった。これで怒ったのが正妻の二人の息子だった。名を3男がヌナカワミミの尊、末弟をヤイミミの尊という。兄とはいえ領地を総取りし、皇位を奪い、あまつさえ母まで奪われた。もう、戦う以外に生きるすべはなかった。


二人は酔いつぶれて寝込んだタギシミミノミコトの寝室を強襲した。


だが、先に飛び込んだヌナカワミミの尊が震え上がってしまい刺せない。あわてたヤイミミの尊が「兄貴何やっとん!」と剣を奪って一突きにした。ヤイミミの尊はヌナカワミミの尊に「さあ玉座へ」と即位を促すが、ヌナカワミミの尊は「いや、お前が即位しろ。私は大事なときに怖気づいて何も出来なかった。こんな事では天皇は務まらない、私は好きな音楽でもやりながらお前に仕えるよ。」と即位を辞退した。そこでヤイミミの尊が第二代天皇「綏靖天皇」となって即位した。ちなみに宮中雅楽の多(おおの)さん家はこのヌナカワミミの尊の末裔なんだそうだ(笑)。


 そして、こっから8世代、240年ほどにわたって記紀の記述が途絶える。


これを「欠史八代」と呼ぶ。バカな赤学者が共産党の命令で8人の天皇を「いなかった」ことにしちゃってるのはほんとーーにウンザリ(-_-;)。学問の自由に対する重大な侵犯ではないか!だいたい「記録がない=存在しない」ってどんな理屈だ。たとえは東北大震災で多くの町役場が被災して不幸にも大量の戸籍が失われてしまったか、「戸籍を失った人」は「最初から存在しなかった」のか?バカな赤学者どもの言ってることはこれとまったく同じ。正気じゃない!


あたりまえだが、「記録」と「存在」のあいだにはもともと何の相関関係もないのだ。


当たり前ではないか。「タイムマシーン」も「ドラえもん」も「ゴジラ」も記録されているが存在しているか?「記録」論は「記録」論、「存在」論は「存在」論として別々に議論するのは当たり前。こっから先はかなり仔細な哲学上の議論になるので今は語らない。ほんと、くそみそ一緒にすな!馬鹿め! ふーー、さてと怒りがこみ上げてきて、話がずれた。元に戻そう。


ちなみに8人のうち2人はすでに考古学的調査から「存在」が確認されており


、残り6人も研究が進めばいずれ確認されるだろう。さてと、なぜ「欠史八代」の天皇の事跡が意図的に隠蔽されたのかは前回やった。だが実はもうひとつ原因があるのだ。本稿を最初から読んでいる人ならピンと来たかもしれない。


「国家」が創設されて最初に作られた大発明とは何か?そう、「文字」の問題なのだ。


 「国家」は恒常的な組織であり、肉親関係にない多くの人々の協業関係なので必ず仔細な記録を必要とする。そのためにはどうしても「文字」が必要となるのだ。人間の記憶にはどんな優秀な人でも限りがあるからな。日本人が最初に知った文字は漢字だった。これは間違いない。たが、漢字とは「絵文字」のことであり、「音」と「意味(字義)」が乖離しやすい文字なのだ。これを


日本文化における「漢字問題」と呼ぶ。


わかりやすく言えば、同じ音なのに文字がたーーーくさん出てきてしまうのだ。しかも、複音になっていてその音を分離できない。しかも、ペアになった音はシナ語の語彙にあっても日本語の語彙にはないものばかりだった。ご先祖様たちもさぞ面食らったことだろう。「なんで先進国であるはずチャイナでこんな使いずらいもん使ってんだろう」って(笑)。一説には「ヲシテ」と呼ばれる神聖文字が開発され皇族・神官関係者のみが独占的に使用していたのではないかというかなり有力な説もあるのだがここでは割愛。「欠史八代」は「日本文化創造の時代」であり。その概論については次回語ろう。とほほ。


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 続いて9日後に書いたのが「日本法制通史概論」第4弾。「日本文化創世記編」。少しペースダウン(笑)。〔2015年12月10日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0013


 さてと、話を元に戻して続けますか。前回、「欠史八代」の直前まで行った。なぜ、八代の歴史が封印されたのかもすでに説明した。今日は日本語と「文字」の問題について語ろう。日本において、文語つまり書き言葉が完成したのは今から1100年前の話で、それまでは父祖たちは悪戦苦闘の連続だった。最初の文字は漢字だった。最初は目録や名簿を当て字で書いていたのだろう。アルファベットでとりあえずメモった見たいな感じか。だがそれではどのメモがどのメモなのかすぐ判らなくなってしまう。情報機器でも良くある事だ。だから、分類のためのタイトルを付けなければならない。そのタイトルを目録にすれば、結局、文章を書くしかないのだ。このタイトルはチャイナ語でしか書きようがなかった。


弥生時代の「最初の知識人」たちは言語は日本語、文語はチャイナ語という「変則バイリンガル」だった


んだって事。これはけっこう、キツイと思う。現代でも日本人が英語をはじめとする外国語で論文等を発表することはあるが、まず、日本語で書いて英語に翻訳する。それができないのだ。けっきょく、チャイニーズの「知識人」を雇って日本語を教え込んだ上で使うしかなかっただろう。日本最初の「お雇い外人」ってわけだ(笑)。そう考えると1300年前に書かれた


日本最初の国定歴史書「日本書紀」が何故日本語ではなくチャイナ語で書かれていたのかが良くわかる。


 ついで、書籍つまり文化の輸入が始まった。最初に輸入されるのはいつの時代も技術書だ。今のエンジニアが英語の専門書かって来るみたいなもんだな。当然、書いてあるのは漢字でチャイナ語。日本語は建国の時点ですでに1万年の歴史を持っている言語。チャイナ語なんぞに変更できるわけない。


そこで考え出されたのが「訓読法」だ。


平たく言うと「漢文の語順を意味を損なわずに日本語の語順に変換する方法」だ。レ点とか一二点とか、高校の古文で漢文をやったとき習ったあれだ。あれ実はかな文字より古い「日本最初の文化伝達法」だったわけだ。吃驚的事実!ちなみに「訓読法」は英語にもドイツ語にもアラビア語にも使用可能だか、これらの言語はかな文字発生後に導入されたので誰も使用しなかった(笑)。これで、一応チャイナ語の本を日本語で読む方法が見つかった。だが、書くのはやっぱりチャイナ語。


日本語のROM(リードオンメモリー)時代だな(笑)。


ROMってばかりじゃ不満なやつはいつの時代もいるもんだ。当然、弥生時代にもいた(笑)。そして、また当て字に帰った。ただ、その数をすこしづつ限定していった。当て字に使う漢字と使わない漢字とに分けた。そうして出来たのが「万葉仮名」だ。建国から200年、今から1600年前から使われだしたらしい。だた、これには大きな欠陥があった。いまでもある事だが「きしゃのきしゃがきしゃできしゃしてきしゃした」みたいな文章の意味がわからなくなってしまうのだ。


日本語は基本的に縄文時代に発生した「家族語」だから同音異義語が異様に多い。


ワープロ使うだけで判るでしょ。ちなみに正解は「貴社の記者が汽車で帰社して喜捨した」だ。七転八倒、のた打ち回ったご先祖様が編み出した方法が奇想天外!


「歌う」ことだった!


言語学的には「音韻法」という。いまでも「710(ナットー)食って平城京」「794(ナクヨ)ウグイス平安京」とかやるでしょ。あれだあれ。音韻つまり「節」を付けると言葉は覚えやすくなるのだ。代表的な用法を代表的な歌に託して単語の語法(用法)を限定していったわけだ。同時にこれは古い日本の文化や古語を保存する、アンチ舶来文化の運動でもあっただろう。「日本人は日本人だ!」って(笑)。そうして生まれたのが国民歌集「万葉集」だ。上は天皇から下は「読み人知らず」と言われた庶民まで、神々への祈り(祝詞)へと仮託して、自らの思いを歌い上げていった。完成したのは今から1300年前、全4500首、素だと原稿用紙で350枚ぐらいだけど仔細な解説が入り今では4巻組み文庫本にまとめられている。この試みは以後、勅撰和歌集の編纂をへて宮中行事(宮中歌会始)として今現在まで延々と続いている。ってことで今日はここまで。とほほ。


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 続いて7日後に書いたのが「日本法制通史概論」第5弾。「日本文化創設編」。「俺」的には最初のポイント論考。〔2015年12月17日掲載〕



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最近、考えたこと。Part0014


 さてと、話を続けますか。前回、「万葉集」まで行った。「欠史八代」の概説なのだが、すこし近道してこのまま文字に纏わる文語論を続けよう。万人が理解できる「標準的」な日本語の用法を集め節を付けて「歌わせる」ことによって古来の文芸を保存しながら語義を少しずつ整えて行ったことは前回やった。そして、最後のステージは外来宗教「仏教」の導入によって始まる。歩みは遅々とした物だったが日本文化は確実に進歩を続けていた。だが、漢字特有の「字義(字の意味)」という壁に阻まれて、今一歩を踏み出せなかった。


そこに1465年前に仏教が公式に伝来した。


これは物凄いものだった。それは宗教・文学・倫理・哲学・技術・芸術・音楽を含む一種の総合文化だった。当時の日本人はこれにたちまち魅せらた。そして二つのグループへと再び分裂してしまう。一心不乱に仏教にのめりこむ人々、崇仏派(いわゆるハイカラ組)と古来からの神道も尊重せよと主張する廃仏派(いわゆる国粋派)だ。今後、いやと言うほど繰り返し繰り返し行われる事となる「外来文化」の受容のあり方をめぐる対立だ。


 日本史には大きく分けてこれが5回あった。


パターンはいつでも一緒(笑)。まずハイカラ組が勝つ。当たり前だ。ハイカラ組が勝たなければ「外来文化の導入」なんて最初から起こらないんだから(笑)。続いて、国粋派が台頭して「外来文化への抗議(プロテスト)」が起こり両者が対立する。その過程でほとんど無意識のうちに「外来文化の取得選択」がハイカラ組(問題のあるところを削る)・国粋派(問題の無いところを受け入れる)を問わず行われる。そして、最後にハイカラ組・国粋派の一致した部分が日本文化の一部として日本社会全体に「受容」される。みんな、当たり前のことのように考えているが実はこれ「物凄く特殊」なことなんだよ。中東見てみな「コーランに書いてあるから奴隷制度は正義だーーー」って叫んでる連中がてんこ盛りで大反乱おこしてるから(-_-;)。これが宗教と価値観の違いかって世界中が驚愕して絶句中。ま、これについてはまた後で書くよ。話を元に戻そう。


 崇仏派と廃仏派の対立後、取得選択を経て仏教は日本社会に受容されて行ったが、


その過程で問題となったがその経典つまり「お経」だ。仏教はもともとインドの宗教で「お経」は元来「梵字(サンスクリット文字)」で書かれていたが、日本に渡ってきた「お経」は全て「漢字」でチャイナ訳されたものだった。当然、原意(元々の意味)を知りたくなった。そこで奈良時代から平安時代初期にかけて(1100年前〜1200年前)に当時チャイナに来ていたインド人を日本に呼び寄せ「梵字(サンスクリット文字)」で書かれた「お経」の意味を聞いた。そして驚愕的な事実を知る。


「梵字(サンスクリット文字)」には「字義(字の意味)」が無かった


のだ。これは強烈な知的インパクトだった。言うなれば数学における「ゼロ」の発見のようなものだ。「字義(字の意味)」が無くても仏教のような偉大な文化が創れるというのは天地がひっくり返るような衝撃的な事実だった。そして、間の無く大きな変化が現れた。「仮名(かな)」が「万葉仮名」を整理し取得選択する形で整備されていった。やがて古今和歌集・土佐日記・枕草子・源氏物語といった「仮名文学」の名作が書かれることによって「仮名(かな)」は公認され定着して行った。同時に「漢詩」も導入され、そこで現れる哲学的概念や固有名詞を仮名文の中に取り入れるという手法が開発することによって新古今和歌集・方丈記・徒然草・平家物語などの名作が書かれここに「和漢混交文」による日本文語が完成したわけだ。いまから800年前の話。さてとチャートしよう。


12000年前 日本における定住が始まり原・日本語発生。
         ↓
 2300年前 弥生時代始まる。漢字が導入される。
         ↓
 2075年前 日本建国。言語的統一が始まる。日本語発生。
         ↓
 1800年前 万葉仮名が使われ始める、日本文語発生。
         ↓
 1600年前 和歌が歌われ始める、日本文化発生。
         ↓
 1500年前 仏教伝来。外来文化の導入策始まる。
         ↓
 1200年前 「梵字(サンスクリット文字)」による「表音文字」の発見。
         ↓
 1100年前 「表音文字」の導入、「仮名文字」の発生。
         ↓
 1000年前 「仮名文学」の勃興。
         ↓
  900年前 「漢詩」による哲学的概念の導入。
         ↓
  800年前 「和漢混交文」の採用により日本文語が完成。


ま、こんなところか。こうしてみてくると「日本文化」における「皇室」の途轍もなく重い重要性が良くわかる。ま、これもひとつひとつこれから書いていくよ、ってか何で国立大学の教授たちが書かないのかが良くわからない。誰に何のために雇われてるのか考えたこと無いんだろうか?税金ドロボーかあいつら、ふんと腹立つなーーー。とほほ。



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 続いて3日後に書いたのが「日本法制通史概論」第6弾。「統一戦争編」。少しペースアップ(笑)。〔2015年12月20日掲載〕


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最近、考えたこと。Part0015


 さてと、話を続けますか。前回、日本文語(書き言葉)は2300年前の「漢字導入」から800年前の「和漢混交文」の完成まで1500年間かけてゆっくりか発展してきたものであることは説明した。われらが父祖の文化的苦闘のを少しでも理解してもらえただろうか?理解できたのなら次に進もう!ってか進みすぎたから元に戻ろう。「欠史八代」の話だったな。


 当たり前だが「欠史八代」の歴史は良くわからない。


一に詳述したとおり文化的問題から文字資料が万葉仮名を含めて欠損しており、二に皇室自身が日本の文化的統一のために封印したからだ。だがある程度はチャイナ文献と神話(神代)と後世の歴史(人代)との関連性の分析によって推測可能なのでそれを語ろう。2100年前、九州の残忍な戦乱とチャイナの朝鮮半島からの軍事侵攻を憂い、新天地を求めた皇族は奈良盆地を総本拠に定め日本建国の事業を始めた。いやな話だがそれは「戦争」だった。戦争を終わらせる「唯一の方法」が戦争なのだ。悲しいかなこれは紛れもない事実。


当時、日本は大雑把に4つのエリアに分割されていた。


一つは弥生時代の最先進地域である「九州」。ここでは終わりなき残忍な皆殺し戦争が続いていた。二つ目が「大和国」つまり日本国。ここでは瀬戸内と東海道の太平洋岸を繋げる交通網が整備されつつあった。これは後に大きな威力を発揮することになる。3つ目は現在の島根県に当たる「出雲国」。ここは皇室と同系統の海人族の国で実に良く似た戦略をとり、朝鮮半島から現在の新潟県あたりまでの日本海側の交通網を押さえ、それを使っていち早く鉄器の生産技術を朝鮮半島のチャイナ人コロニーから導入する事によって「大国」へとのし上がってきていた。4つ目が「東国」つまりその他もろもろだ。


ここではあいもかわらず間抜けてビンボーな縄文生活が続いていた(笑)。


 「大和国」は一通り、本拠の防備を固めるとまず「東国」へと向かった。そして部下たちに領地を与え次々とコロニーを建設していった。土地はいくらでもあった。西部開拓ならぬ東国開拓だ(笑)。これらの部下たちは現地の縄文人たちを味方につけ開墾による弥生式農耕を広めて行った。もともと建国の時点で補助農耕(陸稲栽培)は2400年の歴史を持っていたので水田農耕のメリットを「東国」縄文人達はすぐに理解した。それは恐るべきスピードで広まっていった。建国からわずか100年弱でそれは青森県にまで到達した(垂柳遺跡)。それぞれのコロニーは国(くに)もしくは県(あがた)とよばれ、長は国造(くにのみやつこ)もしくは県主(あがたぬし)と呼ばれた。そしてこれらのコロニーを纏め皇室に忠誠を誓わせるための神殿を当時の交通の要衝である「伊勢」の地に建立した。これが「伊勢神宮」だ。おそらく各コロニーの長たちは回り番で「大和国」の防衛とその費用調達を命じられたに違いない。兵を率いて上洛する東国軍団は海路伊勢に上陸し自分たちの「故郷(東=太陽の上る場所)」を表す「太陽の女神(天照大神)」に皇室への忠誠を誓い、命じられた持ち場へと散っていった。


「太陽の女神(天照大神)」が皇室の祖先神とされた理由はこれだろう。


 この皇室の大戦略は「大和国」の国力を飛躍的に向上させた。だがこの戦略には一つ問題があった。上記、出雲国が日本海岸で同一戦略を取っていたのだ。最先端では長野県諏訪地方のような内陸奥深くにまで出雲系コロニーが存在していた。だが同一戦略を持つ「大和国」はこの戦略の弱点も熟知していた。別項でやったが制海権は「港」の取り合いなのだ。どこか一箇所、航路の途中にある港を押さえてしまえば当時の未熟な航海技術ではそこから先を自動的に「乗っ取る事」ができるのだ。この新戦略のターゲットはズバリ、福井県敦賀市だったに違いない。地政学的に考えれはあそこしかないもんナ。後に「五機内」と呼ばれる本国を固めた「大和国」は三重県と和歌山県を押さえた後、まず滋賀県へと進攻した。そして、交通の要衝である青野ヶ原の関(いわゆる関が原)を抑えた後しばらくは北上を停止し東国太平洋岸の開拓に専念した。建国から200年ほどたった1900年前に北上を再開、敦賀市を襲撃し一挙に出雲系コロニーを乗っ取り


、東国を完全に掌握した。これが「出雲の国譲り」の神話の真相だ。


 もちろん、出雲国も反撃に出た。九州侵攻中の兵力を守備兵力を残して撤退させ、旧領回復のために「大和国」との全面戦争に打って出た。これが「倭国大乱」だ。日本の運命をかけた戦争の様子は良くわからない。多くの血が流れ、いくつもの国や県が消えて行ったことだろう。ただ、東国というフロンティアを独占した「大和国」はすでに圧倒的な優位に立っていた。当然のように「大和国」は「九州諸国」に同盟を申しこんだはずだ。出雲国は剽悍な「九州諸国」と強大化した「大和国」に挟撃されやがて降伏した。いまから1800年前の話。ま、今日はここまでにしようか。とほほ。



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「その2」はデーター量の関係から今日はここまで(笑)。まだまだ続きます(笑)。その話はまた次回語ろう。


PS、カセットボンベが買えなかった。こういうのは先手必勝。神様仏様、今回ばかりは関東ブラックアウト勘弁してくださいm(_ _)m。とほほ(ToT)。



おまけにみくしー検索かけてみました。

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